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一生懸命に働くことと神の定めに従うことは同じことではありません

白谷美纪子は窓の前に立ちながら、最近彼女を当惑させている問題について深く考えこんでいました。主イエス様はこう仰せられました。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音書7:21-23)天なる父の定めに従う者だけが天国に入ることができます。さて、私は全てを捨てて、神のために労力を費やし、毎日一生懸命に働いていますが、私は天なる父の定めに従う人になれているのでしょうか?これが天なる父の定めに従っているということにならないとしたら、私は最後に神から捨てられ、排除されてしまうのでしょうか?

集会の最中、白谷美纪子は自分の抱える困惑を提起しました。

泓美衣はこう言いました。「白谷姉妹、私たちは福音を伝え、犠牲を払い、労力を費やしながら、熱心に主のために働いています。私たちは天なる父の定めを全うしていると思いませんか?主は来臨される時、間違いなく私たちを天国にお連れくださります。私たちはこのような確信を持たないといけないんですよ!」

集会にいた他のクリスチャン2人もチンフアの意見に賛成しました。彼らは一生懸命に働くことが天国への道を開くと信じていました。

彼らの意見を聞いた後、白谷美纪子はこう言いました。「私は幾つか分からないことがあります。でも、それが本当なら、イエス様はどうして主の名によって福音を伝え、悪霊を追い払い、多くの奇跡を起こした人々が邪悪な人々だと言われたのでしょうか?これには探求すべき真理があるはずです。私たちが思っているほど単純なはずがありません。」

白谷美纪子と同じ考え方をしていた駒欣子は頷きながら白谷美纪子の見方に賛成しました。彼女はこう言いました。「この主題についてですけど、大切なことは神の定めに従うことがどんな意味を持つのかということだと思います。」

駒欣子が話し終える前に、泓美衣が割り込んでこう言いました。「私はパウロ兄弟がこう言ったのを覚えています。「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。」(テモテヘの第二の手紙4:7-8)

駒欣子はこう言いました。「しかしですねえ、ヂェン姉妹、イエス様は一生懸命に働くことと神の定めに従うことが同じことだとは仰いませんでした。実際、それは逆だったんですよ。主は、一生懸命に働くけれども主の定めに従わない人々を邪悪な人々と定義されました。これはどう説明すれば良いのでしょう?パウロは義の冠が彼を待っていると言いました。しかし、これは単に彼の個人的な考えだったのです。聖書の中に彼の言葉を立証する証拠はありますか?イエス様は彼の言ったことが正しいと認めておられますか?パウロの言葉は人間の言葉であって、神の御言葉を表しているわけではないのです。私たちは、神の道に従うのであれば、神の御言葉を基準として捉える必要があるのです。」

説教を聞いて戻ってきた谷後元はこう言いました。「クリスチャンの大多数が『熱心に働くことは神の定めに従うことと同じである』という観点を支持しています。私も、この観点が真理と神の御旨に沿っているのかどうかを頻繁に検討してみました。私はユダヤのパリサイ人たちが福音の伝道をするために陸と海を巡り歩き、頻繁に交差点で祈りを捧げ、断食までしていたことを思い出しました。人間の観点からすると、彼らはたくさん良い行いをし、とても敬虔でありました。しかし、その彼らが最終的には神に断罪され、呪われてしまったのはどうしてなのでしょう?神は人間の心の奥底までお調べになります。パリサイ人たちはたくさんの苦難に耐えたものの、彼らは宗教的儀式を行い、聖書の内容と理論について語っていただけだったのです。彼らは神の御言葉を全く実践していなかっただけでなく、神の戒めに従ってもいなかったのです。彼らが行ったことは全て、各々の地位と生活を維持するためだけでなく、祝福を受けて、報酬を手にすることだけを目的としていたのです。彼らの心は基本的に神を愛しておらず、彼らは神を畏れる心を全く持っていなかったのです。主は働きをしに来られた時、天国の福音を伝えられ、人々に告白して悔い改めるよう仰せられ、たくさんの奇跡を起こされました。イエス様の働きと御言葉には権威と力があったのです。こういったことを語り、行える人は他には存在しません。しかし、イエス様の働きを前にしても、パリサイ人たちは真理を求める心を持ちませんでした。彼らは狂信的にイエス様に抵抗し、罪に定め、ついにはイエス様を十字架に磔さえしてしまいました。これが真理を嫌う彼らの本性、および偽善的な本質を完全に暴露したのです。この事実は、一生懸命に働くことが神の定めに従うこととは根本的に違うということを私たちに知らせてくれています。神の御言葉を実践すること、そして神の戒めに従うことができていなければ、私たちは一生懸命に働いていたとしても、神の称賛を得ることはできないのです。

「その後、私は神の定めに従うことの意味を理解しようとしました。神の定めに従うことはどのような形で表れ、それを貫くとはどういうことなのか?聖書を調べた時、私はイエス様が仰ったこの言葉を見つけました。『もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。……わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。』(ヨハネによる福音書14:23–24)『もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。』(ヨハネによる福音書8:31)『「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」。』(マタイによる福音書22:37-39)神の定めに従うということは、神の道と戒めに従い、神の要求通りに自分たちの本分を尽くすということなのです。主に仕える上で、主の御言葉に応じず、聖書に書かれた人間の言葉に応じていたら、それは天なる父の定めに従っていることにはならないのです。」

駒欣子はこう言いました。「そうです、主の信仰を始めた後にたくさんの苦難に耐え、大きな犠牲を払い、患難を受けさえしても主から離れなかった人々は大勢います。しかし、彼らの行いは全て祝福を受けて、報酬を手にするためにしたことでした。彼らの目的は天国に入り、義の冠を手にすることだったのです。このように犠牲を払い労力を費やすことは神と取引をしているのと同じことです。それは欺きと個人的な動機および目的に満ちた行為なのです。このような人々は基本的に神を愛しておらず、神に服従してもいません。彼らを神の定めに従う人と呼べるはずがありません。横浜市にいる太田牧師が同じようなことをしています。彼が説教の最中に語ることと、自宅で行っていることは全く異なります。彼は兄弟姉妹たちに寛容な心と耐え忍ぶ心を持つように言いますが、家では妻に暴力を振るいます。神の御言葉を全く実践していません。宣教をする時も、彼はいつも主を讃えて主の証しをする代わりに自分自身の証しをしています。彼はいつも自分が犠牲を払い、主のために労力を費やし、神のために数足の靴をボロボロになるまで履いたなどと言っているのです。これは全て兄弟姉妹たちから崇拝され、尊敬されるためにやっていることなのです。主のために働き労力を費やしているふりをして、決して主を崇めず、主の証しもせず、代わりに他人から尊敬されようと全てにおいて自己顕示するような人が、神の定めに従っていると言えますか?このような懸命な働きは神の御心に沿っていますか?パリサイ人のように悪事を働き、神に抵抗しているのではないでしょうか?」

チウ・ユーリンがこう言いました。「そう、その通りなんです。説教を聞き行っていた時にある書籍を見つけたんですけど、その内容が素晴らしいんです。その中から皆さんにこの一節を読んで差し上げます。『わたしは、一人一人の終着点を、年齢や年功序列、苦しみの量、とりわけ憐れみを誘う度合いではなく、彼らが真理を持っているかどうかに基づいて決める。これ以外の選択肢はない。神の心に従わない人たちはすべて懲罰されることをあなたがたは悟らなければならない。これは不変の事実である。よって、懲罰される者たちすべては神の義ゆえに懲罰されるのであって、彼らの数々の邪悪な行為への報いである。』(「終着点のために、善行を十分積まなければならない」より)この節より、神は私たちが神の定めに従っているかどうかによって私たちが善良であるか、邪悪であるかをお決めになることが分かります。神は私たちが真理の現実を生きているかどうかを基に私たちの終着点をお決めになります。こういったことは私たちの外面的な振る舞いによって決まるものではなく、私たちがどれだけ一生懸命に働くかによって決まるものでもありません。これより、神の義を知ることができます。」

突然、白谷美纪子にとって全てがはっきりとしました。彼女は嬉しそうに言いました。「神に感謝します!私たちは神のために一生懸命働くことができるかもしれませんが、それは全て祝福を受けて、将来的には天国に入るために行っていることで、神への服従と愛を理由で行っているわけではないのです。なので、私たちがやっていることは紛れもなく神の定めに従うということに関連していないのです。外面的に前向きな行動を取っていても、心の中で神に服従せず、神を愛していなければ何の意味もないのです。私たちは神の御言葉に従うことに集中するべきで、神の要求通りに神を信じ、神に従うべきなのです。基本的なこととして、神の戒めに従い、神に背いてはならないということです。」

駒欣子はこう言いました。「その通りです。私たちは神の道に従わずに、自分たちの想像と観点を頼りにしながら神を信仰しているのです。最終的に、私たちも神を信仰しながら神を知らなかったパリサイ人と全く同じになってしまうでしょう。私たちは主の道から逸脱し、主に抵抗するばかりです。私たちは外面的にたくさんの苦難を経験してはいますが、どれだけ一生懸命に働いても、神に抵抗する人々であるということに変わりはないのです。」

白谷美纪子はこう言いました。「これで、一生懸命に働くことは神の定めに従うこととは違い、まして天国に入る条件ではないということが理解できました。神の定めに従うということは、神がどのような働きをされても、神が何を仰せられても、神の要求が何であろうとも、神に服従し、神の道に従うことができ、神を満足させて神の証しをするために労力を費やし、完全に神に尽くし、神と取引をしないということを意味しています。そして、このような人のみが天国に入ることができます。そのような人たちとはアブラハムやペテロのような人たちです。彼らは神から何を要求されても、神の御旨を探求し、神に従っていました。彼らは神の御言葉に従い、神を恐れ、悪を遠ざけて生きた人物たちでした。」

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