寄稿家:シンユアン(オーストラリア)
神には果たして固定された性別があるのか。主イエスは男性として肉となられましたが、それは神が男性であることを示しているのでしょうか。これは誰もそれをはっきり説明できないという問題です。そして、私は神についての認識がなく、神の性別について多くの観念を抱いていたので、主をお迎えする機会を逃すところでした。そこで、皆さんのお役に立てればと思い、これから自分の体験をお話します。
私は幼い頃、母と共に地元の家庭教会に通って集会に出ていました。私たちが神の性別に関する真理を語っていたとき、おじである牧師がよく聖書のこれらの節について私たちに説教しました。 「父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわすように、子の栄光をあらわして下さい」(ヨハネによる福音書17:1)「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」(創世記3:16)「しかし、あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である」(コリント人への第一の手紙11:3)。おじは言いました、「主イエスは天の神を父と呼ばれ、天の神は主イエスを息子と呼ばれた。御二方は父と息子だった。ということは神は男性だということだ。それに、女は人類の罪の源であり、呪われている。女のかしらは男だ。だから神は男性だ。」そのため私は心の中で、神は男性であり、男性として戻られると確信していましたが、それはある日、姉妹のさんと出会うまでのことでした。…
2018年4月のある日、私はフェイスブックでさんとさんという姉妹と知り合いました。私たちは頻繁にネット上で集会を開きました。ある時さんが、主イエスがすでに全能神として受肉として戻られ、私たちの間で暮らしておられると証ししました。この知らせを聞いて、私は驚きつつ喜びました。喜んだのは主イエスが戻って来られたからで、驚いたのは、私が主の再臨をお迎えする準備ができる前に戻られたからでした。その晩、集会の後、私はベッドに横になりましたが、興奮のあまり眠れなかったので、起きてインターネットで全能神教会について調べました。その結果、さんが説いたのは東方閃電の教えであることがわかりました。私は唖然としました。というのも、子供の頃におじから「東方閃電は主の再臨のお姿が女性だなどと証しするが、信じてはいけない」と聞かされたのを思い出したからです。その時、私は心に葛藤を抱え、こう考えました。「ここ数日間、さんの説教を聞いて、私は真のキリストと偽キリストとの区別や、人類がサタンに堕落させられている実態、主の到来の預言の成就や、どうすれば主の再臨をお迎えする賢いおとめになれるかなど、多くの真理を理解した。これらの真理のおかげで、神の働きについて新しい認識を持ち、聖書の中の奥義も多く理解することができた。このまま学び続けるべきなの、それとも李さんとまた集まるのを断るべきなのかしら。」一晩中何度も何度もこのことを考えていました。
ついに朝が来ました。ヨーロッパにいて一緒に学んでくれているさんに、私はすぐに電話して、自分の混乱について話しました。私の話を聞くと、彼女は言いました。「私も疑問をいくつか抱えていますが、私たちは学び始めたからには、問題をはっきり理解すべきです。李さんの説教が真理と一致するなら、学び続けましょう。一致しないなら、今学ぶのをやめても遅くありません。」 私はしばらく考えて、彼女の言う通りだと感じました。それで私たちは一緒に主に祈り、「正しいことと間違ったことを区別できるように、知恵をお与えください」とお願いしたのです。
神は女性として受肉することもできる。
皆で集まった夜、私はさんに自分の混乱を打ち明けました。「夕べネットで『全能神』という名前を検索すると、神がまた肉となられたという話や、神は女性であるという話を見つけました。でも私は神が主イエスのように男性だと信じています。聖書には、主イエスがこう仰ったと記されています、「父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわすように、子の栄光をあらわして下さい」(ヨハネによる福音書17:1)と。 主イエスは天の神を父と呼ばれ、天の神はイエス・キリストを息子と呼ばれました。御二方は父と息子です。ということは神は男性ではないでしょうか。なので私は、神は戻られたときは男性であるはずだと思います。どうして女性でありえるのでしょう。」
これを聞いて、さんは根気よく教えてくれました。「さん、主イエスが発せられたこの文章をどう理解すべきかに関しては、全能神の御言葉を見てみましょう。全能神はこう仰せられます、「イエスが祈る間、父の名で天の神を呼んだ時、これは被造物の人の観点だけから行われたのであり、それはただ神の霊が普通の正常な肉を着て、被造物の人の外見をしていたためであった。彼の中には神の霊があったとしても、外観は普通の人であった。言い換えれば彼は、イエス自身を含め、すべての人が言うところの『人の子』になった。彼が人の子と呼ばれるならば、彼は普通の人々の通常の家庭に生まれた人(男でも女でも、とにかく、人間の外見を持つ者)である。従って、父の名で天の神を呼ぶことは、あなたがたが最初天の神を父と呼んだ時と同じであった。彼は創造された人の観点からそうした」これらの御言葉から、主イエスは祈りの際に天の神を父と呼ばれたとき、創造物の視点からそうされたことが分かります。それは私たちが主の祈りを唱えるとき、天の神を父と呼ぶのと同じです。これは主イエスの謙虚さと従順を明らかにしますが、神が男性であることを意味しません。創世記第1章27節を思い出してください。「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」とあります。ここから、神が男と女をご自身のかたちに創造されたことがわかります。もし私たちが自分の観念に固執して、神が男として受肉しなければならないと考えるなら、神が女をご自身の形に造られたことはどう説明するのですか。創世記と矛盾していませんか。実のところ、神は男だけでなく女もご自身のかたちに創造することができます。それゆえに神は男と女のどちらかに受肉できるのです。ですから、神が男性だと断定することはできません。」
彼女の説教を聞いた後、私の心を縛っていた枷がいくつか解かれました。主イエスが祈りの際に天の神を父と呼ばれたとき、創造物の視点からそうされたということを知りました。しかし、だからといって神が男性であるわけではないのです。さらに、神は男と女をご自身のかたちに造られました。したがって、神は男と女のどちらかに受肉できるのです。
寝る前に、私はベッドに横になって、さんが説教したことを思い出しす。それが十分に根拠があると感じましたが、聖書の次の節のことを考えるとまた疑問を抱きました。「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」(創世記3:16)、「しかし、あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である」(コリント人への第一の手紙11:3)。 私はこう考えました。「これらの聖句では、女性が呪われているとはっきり述べられている。受肉された神が女性なら、どうして権威を持つことができるでのかしら。それに、過去において、主の弟子のほとんどは男性だった。今では、基本的に説教者や牧師も皆男性だわ。それでどうして神の再臨のお姿が女性でありえるのかしら。」またこれらの問いを何度も思案し始め、その夜は眠りにつけませんでした。
翌晩、私はさんから電話を受けたので、自分の疑問を伝えました。その話を聞いた後、彼女はこう言います。「実際には、ヤーウェ神がエバに『それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう』と仰せられたのは彼女が善悪の知識の木の実を食べた後でした。神の目的は人類を調和の中に生かすことです。これは、地上に住む全ての創造された人類に対する神の要求ですから、私たちが従うべきものではありますが、受肉された神とは全く関係ありません。それは律法の時代に、ヤーウェ神が人類に安息日を守るように求められたのと同じです。こうした要求を遵守しなければならなかったのは人類であって、神ではありません。ですから私たちは、主イエスにはそれに従えと言うことはできません。また、マルコによる福音書第2章27節と28節で、主イエスは、『安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである』と仰いました。同様に、『女のかしらは男』という言葉は、罪を犯した人類に向けられていました。ですから私たちはこの聖句を使って、神が女性として受肉することはできないと決めつけることはできません。」
彼女の説教を聞いて、私はこれらの言葉が私たち人間を対象としているのであり、これらの聖句を使って神の受肉の性別を限定すべきではないことを知りました。しかし、なぜ神が今私たちに女性として出現されたのか私にはまだわかりませんでした。もし神が男性として出現されたら、それは私たちにとってもっと受け入れやすくないでしょうか。それに神の働きがもっと行いやすくないでしょうか。それで私はこの疑問を述べました。するとさんは私に全能神の言葉の二つの節を読んでくれたのです。「当時、イエスは男性として来たが、今回来る際、神は女性である。このことから、神は自身の働きのために男性と女性の両方を造ったが、神には性の区別がないことがわかる。神の霊が来るとき、それはいかなる肉体でも意のままにまとうことができ、その肉体は神を表すことができる。男性であろうと女性であろうと、それが神の受肉した肉体である限り、どちらも神を表せるのである。イエスが来たときに女性として現れたとしても、つまり、男の子ではなく女性の赤子が聖霊によって受胎されたとしても、その段階の働きはまったく同じように完成されたことであろう。そうだったならば、現段階の働きは女性ではなく男性によって完成されなければならないはずだが、それでも結局、働きはまったく同じように完成されることになる。いずれの段階でなされる働きにも等しく意義があり、どちらの段階の働きも繰り返されることはなく、互いに矛盾することもない。」「もしも神が男性としてのみ受肉したならば、人々は神を男性として、男たちの神として定義し、女たちの神だとは決して信じないはずだ。すると男たちは、神は自分たちと同じ性別であり、男たちの長であるとするだろう。しかし、女たちにとっては何になるのか。これは不公平であるし、えこひいきではないか。そうであれば、神が救ったすべての人は神と同じ男ということになり、女は一人も救われないということになる。神は人類を創造したとき、アダムを創り、そしてエバを創った。神はアダムだけを創造したのではなく、自分にかたどって男と女の両方を創ったのである。神は男たちだけの神ではなく、女たちの神でもある。」
神の言葉を読んだ後、彼女は私にこう説教してくれました。「神は本質的に霊であり、性別がありません。肉となられて私たちに男か女として出現されるのは、働きの必要条件のために過ぎません。受肉された神の働きが終わったとき、神は霊の領域に戻られます。その時点では性別の区別はありません。ですから、神の受肉が男性であろうと女性であろうと、神はなおも人類の救いの働きを行うことができます。終わりの日の間には、神が女性として働きに来られるのには、実際的な意味があります。主イエスが当時男性として働きをしに来られたので、人々は皆、神が男性だと信じていました。もし神が今度は女として働きをしに来られなければ、人々は神が男性だといつまで思い込み、神が男たちの神であり、男はいつまでも女よりも偉いと考えるでしょう。神が終わりの日に女性として受肉されたのは、私たちの観念や想像に対抗し、『神は男としてしか受肉できない』という誤った考えを覆し、『神が全人類の神であり、男と女のどちらかに受肉できる』ことが私たちに分かるようにするためだったのです。
神の言葉と姉妹の説教を聞いた後、私は何らかの啓きを感じました。結局のところ、神には性別がないのです。神の受肉が男であっても女であっても、神はご自身の霊がまとう肉体である限り、神ご自身であられます。終わりの日に神が女性として出現して働かれているのは、私たちの神に対する観念を覆し、「神が公正で義であり、男と女が神の前で平等であり、神は男だけでなく女も救われる」ことが私たちに分かるようにするためです。もし神がそうなさらなければ、私たちは神に対して真の認識を持たないでしょう。神がなさることはとても意味があります。私は自分がいつも自分の観念や想像で生きて、神を男性に限定していたことを思い出しました。神が女性として出現して働きを行われていると聞いたとき、私は疑ってばかりいました。もし全能神の言葉によって私の混乱が少しずつ解消されなければ、私は確実に全能神の働きを拒み、主を迎える機会を逃したでしょう。そう思うと鼻が引きつって涙が止まりませんでした。神の恵みと救いに心から感謝しました。
兄弟姉妹の皆さん、以上が私の体験です。終わりの日の全能神の働きを学んだ時期のことを思い起こすと、いつも深く感動します。私は神に対する認識がなかったため、主を迎える機会を逃すところでした。しかし、神は私に憐れみをかけてくださったのです。姉妹を采配して私に説教させ、御言葉で啓いて導いてくださったおかげで、私は神の性別についての真理を理解し神の御前に立ち返ることができました。神に感謝します。