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あなたはなぜ主イエスが天の神様を父の名で祈るのかを知っていますか

祈りの会の後、私は3人の教会の姉妹を自宅に招きました。彼女たちは王さん、于さん、賛美歌を教えている趙さんで、3人とも長年にわたり主への信仰における霊的仲間でした。一緒に自宅に着いた後、私はお茶を沸かして彼女たちに出し、皆で歓談を始めました。

趙さんがこう言いました。「あの、まだ分からないことがあります。普通、説教者はいつも『主イエスが神の子だ』と言いますね。それに聖書を見る限り、主イエスは人に説教や話をされている時はいつも、天の神のことを父と呼ばれました。だから主イエスが神の子だということ私は信じていますけど、聖書の話では、主イエスは聖霊によって宿されましたし、主は弟子たちにこう仰ったことがあります。『わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい』(ヨハネ 14:11)、『わたしと父とは一つだ』(ヨハネ10:30)と。それで混乱しています。主イエスは神ご自身ですか、それとも神の子なのですか。」

于さんは皆の前で思わず「神の子に決まってますよ」と答え、そこで趙さんは「何を根拠にそう言うんです」と尋ねました。于さんは次のように説明します。

「マタイによる福音書第3章16と17節にこう記されています、『イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。 また天から声があって言った。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」』

この2つの聖句から、主イエスがバプテスマを受けられたとき、聖霊が直々に主イエスが神の愛する子だと証ししたことが分かります。主イエスは愛する御子と呼ばれたということは、主がまさに神の子だということではありませんか。しかも、主イエスはゲツセマネの園で祈られていたとき、天の神のことを父と呼ばれていました。こういうことこそが根拠じゃないでしょうか」

この話を聞いた後、趙さんはしばらく考え込んで、「于さんが言ったことは最もです。これらの聖句によれば、主イエスが神の子であることは簡単に確認できます。刘さんと王さんはどのように理解していますか。ただ聞いていないで、話してくれませんか」と言いながら私たちの方を見て返事を待っていました。

王さんと私は微笑み合いました。趙さんも于さんもそれを見て、「何を笑っているの」と不思議に思いました。このとき、王さんが先ず次のように話し始めました。「主イエス・キリストは神ご自身か、それとも神の子か。これは宗教界全体がいつも議論している問題です。私たちは聖書に記されていることから、主イエスが何度も天の神を父と呼ばれたこと、そして聖霊も直々に主イエスが神の愛する子だと証したことを知った時点で、イエスが神の子であると一層確信します。このようにして、この父子関係という概念が形成されました。以前は私もそう考えていましたけど、刘さんと一緒に秦さんという姉妹の伝道者の説教を聞いて初めてこのことについて新しい洞察を得たのです。」

于さんは「頼むから早く教えてください。どんな説教だったんです。2人ともどんな新しい知識を得たんですか」と躍起になって聞きました。

王さんは「于さんは相変わらず結果に対してせっかちですね」とにっこり笑って話しながら、聖書をかばんから取り出して言いました。

「主イエスが神ご自身か神の子か知りたいなら、先ず聖句をいくつか読みましょう。ピリポが主イエスに天の父を見せるように求めたとき、主は彼にこう仰いました。『ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。 わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。』(ヨハネ14:9-10)。

これらの言葉を通して、主イエスは、ご自身と父が一つであり、同じ霊であること、主が神の霊の受肉であり、天における御父の具現であることを人々に告げられていたのです。明らかに、主イエスは完全に神ご自身であって、神の子ではありません。でも現在の人々は、聖書に対する自分たちの理解から、主イエスが神の子だと推論します。実際には、主イエスご自身はそのような話を認められませんでした。ご自身について証しされたときは、完全に神ご自身だと仰いました。パリサイ人が主イエスに『あなたの父はどこにいるのか』(ヨハネ8:19)と尋ねると、主は『あなたがたは、わたしをもわたしの父をも知っていない。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたであろう』(ヨハネ8:19)と答えられたのです。

また別の例を見ましょう。主はユダヤ人たちにこう仰いました。『しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう』(ヨハネ 10:38)。それからヨハネの第12章44と45節では、『わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしをつかわされたかたを信じるのであり、また、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである』とあります。

これらの聖句を通して、主イエスは人類に『私は神ご自身だ』と直接は仰らなかったとはいえ、ご自身が神の顕現だと証しされていたのです。主イエスのこれらの御言葉をよく思案すれば、主がまさに神ご自身だと確認できます。」

于さんは聖句を聞いて検討し、王さんの声が鎮まるとすぐに聖書を閉じ、首を上げてこう言いました。「そうですね。主イエスは確かに、『わたしと父とは一つである』と仰いました。ご自身が神の子ではなく受肉した神だとはっきり私たちに教えてくださったのですね。私もこれらの聖句も見たことがありますけど、主が仰ったことに注意せず、ごく一部の聖句を根拠に主イエスを神の子と見なしていました。どうして主の御言葉を心で考えなかったのでしょう。」

そこで趙さんが言いました。「王さんの話は理にかなっていて根拠もしっかりしていますけど、私はこれがよくわかりません。主イエスが明らかに神ご自身なら、どうしてそれでもお祈りの時、天の神を父と呼ばれたのですか。どうして聖霊は、主イエスが神の愛する子だと証しされたのでしょう。」于さんも我慢できず、「そう、その通りです。私もそこが引っかかります。いまいちよくわかりません。それについて話を聞かせてくれませんか」と言います。

私はうなずいて答えました。「その問題には私たちも戸惑いました。そのとき、秦さんがそれに関して私たちに御言葉を3節を読んでくれたのです。」そこで私は自分のノートを開けて読みあげました、「イエスが祈る間、父の名で天の神を呼んだ時、これは被造物の人の観点だけから行われたのであり、それはただ神の霊が普通の正常な人として身を装い、被造物の人の外見をしていたためであった。彼の中には神の霊があったとしても、外観は普通の人であった。言い換えれば彼は、イエス自身を含め、すべての人が言うところの『人の子』になった。彼が人の子と呼ばれるならば、彼は普通の人々の通常の家庭に生まれた人(男でも女でも、とにかく、人間の外見を持つ者)である。従って、父の名で天の神を呼ぶことは、あなたたちが最初天の神を父と呼んだ時と同じであった。彼は創造された人の観点からそうした。イエスが覚えるようにとあなたたちに教えた主の祈りをまだ覚えているか。『天にいますわれらの父よ……』イエスはすべての人に天の神を父の名で呼ぶよう求めた。そして彼も天の神を父と呼んだので、彼はあなたたちすべてと対等の立場に立つ者の観点からそうしていた。」「それでも、イエスは自分の愛する子と神ははっきり述べなかったかと言う人たちがいる。『イエスは神の愛する子、神の心にかなう者である』と、確かに神自身が語った。神は自身の証しをしていたのだが、それは異なる観点から、すなわち天の霊の観点から自身の受肉の証しをしていたのである。イエスは神の受肉であって、天にいる神の子ではない。わかるか。『父はわたしの中にあり、わたしは父の中にある』というイエスの言葉は、二者が一つの霊であることを示しているのではないだろうか。そして、彼らが天と地に分けられたのは受肉のためではないだろうか。実際には彼らはやはり一つである。たとえ何であれ、神が自身の証しをしているに過ぎない。」「イエスが去ったあと、父と子というこの考えもなくなった。この考えはイエスが肉体になった年月にのみ適切であった。それ以外のすべての状況下では、その関係は、あなたたちが神を父と呼ぶときの創造主と被造物の間の関係である。父と子と聖霊という三位一体のこの考えが有効である時はない。それは諸時代を通じてめったに見られない誤った考えであり、存在しない。」

これらの御言葉を読み終えた後、私は続けました、「秦さんの説教のおかげで、私は次のことが分かりました。私たちが想像したのとは違って、主イエスが祈りの時、天の神を父と呼ばれたのは、神の子という身分でそうなさっていたのではありません。実は、創造物の視点に立ってそうなさっていたのであり、そうしてキリストの謙虚さと従順を示されたのです。そのとき、聖霊は主イエスが神の愛する子だと証しされましたが、神の子だとは言われていません。そうではなく、聖霊は主イエスが神ご自身の受肉であることを霊の視点から証しされていたのです。神の肉の姿を愛する子と呼ばれましたが、神の子とは呼ばれていません。

現実には、神は唯一の真の神なのです。天にて宇宙全体に指令を出しておられようと、人の間で働きをするために肉になられようと、肉となった神と聖霊はなおも一つの神です。

受肉されたキリストは本来的に神ご自身であり、神の霊が肉において真に実現された姿だから、神の本質を持っておられます。そしてこの御方が表されるものは神の性質すべてなのです。主イエス・キリストは外見上は普通で正常の肉体でしたが、その本質は神ご自身です。主が働きに来られたことで、旧約聖書の律法の時代が終わって、恵みの時代がもたらされ、私たちは悔い改めの道を賜りました。それに、主イエスの御言葉には権威と力があります。主が風と海を叱責されたとき、海は再び穏やかになりました。ラザロに墓から出ろと命じられたとき、ラザロは死から蘇りました。ですから、キリストは完全に神ご自身なのです。主イエスが天の神を父と呼ばれたのは、肉となって働かれていたからに過ぎません。主の肉としての働きが終わったとき、この父と子という観念もなくなったのです。」

私がこのように話した後、趙さんは喜んで言いました。「今日の刘さんと王さんの話は目から鱗でした。主イエスは天の神を父と呼ばれたとき、肉の視点からそうされたということなのですね。天の神が主イエスを我が愛する子と呼ばれたとき、神は聖霊の視点からご自身の受肉を証しされていたというわけですね。」于さんもうなずいて納得してくれました。「主イエスが天の神を父と言われた本当の理由も、聖霊が主を神の愛する子と証しされたことの意味もやっとわかりました。ついに謎が解けました。」これらの言葉を聞いて、私たちは皆喜んで微笑みました。

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