次にこの一節の最後の一文、つまり「人の子は安息日の主である」という文章を検討しましょう。この文章に現実的な側面はありますか。現実的な側面が見て取れますか。神が述べるすべてのことは神の心から生じるものです。では、そのように述べたのはなぜですか。あなたがたはどのように理解していますか。あなたがたはいま、この文章の意味を理解しているかもしれませんが、それが語られた当時、理解している人は多くありませんでした。と言うのも、人類は律法の時代から抜け出したばかりだったからです。彼らにとって、安息日を離れるのはとても難しいことであり、本当の安息日とは何かを理解していなかったのは言うまでもありません。
この「人の子は安息日の主である」という一文は、神に関する一切のものが非物質的であることを人々に伝えています。それでは、神はあなたが必要とする物質的な物事をすべて授けることができますが、物質的な必要性がすべて満たされた後、こうした物事による満足感で真理の追求を置き換えることはできますか。それは明らかに不可能です。ここまで交わってきた神の性質、および神が所有するものと神そのものは、どちらも真理です。その価値を物質的な物事で計るのは不可能であり、またそれがいかに貴重でも、その価値を金銭で数量化することもできません。なぜなら、それは物質的なものではなく、各人の心が必要とするものを満たすものだからです。すべての人々にとって、こうした無形の真理の価値は、あなたが大事にしているいかなる物体の価値よりも高いはずです。違いますか。この問題についてはじっくり考える必要があります。わたしが述べてきたことの要点は、神が所有するものと神そのもの、および神に関する一切のことは、あらゆる人にとって最も重要なことであり、どのような物体もその代わりにはなり得ないということです。一つ例を挙げましょう。空腹のときには食べ物が必要です。この食べ物は比較的良いものである場合と、そうでない場合があります。しかし腹一杯食べさえすれば、空腹の不快感は解消されてなくなります。落ち着いていられるようになり、身体も安らぎます。人間の空腹は食べ物で解消されますが、神に付き従っているのに、自分は何ら神を理解していないと感じるなら、その心の空虚さはどうすれば解消することができますか。食べ物で解消することができますか。また、神に付き従っているのに、神の旨を理解していなければ、そうした心の飢えは何を使えば満たせますか。神による救いを経験する過程において、性質の変化を追い求めながら、神の旨を理解することも、真理とは何かを知ることもなく、神の性質を知らなければ、あなたは極めて不安に感じませんか。心の飢えと渇きを強く感じませんか。そうした感覚によって心の安息が妨げられはしませんか。では、こうした心の飢えを解消するにはどうすればよいですか。それを解消する方法はありますか。ショッピングに出かける人もいれば、悩みを打ち明けられる友達を探す人、ひたすら眠る人、神の言葉をさらに読む人、より懸命に働き、本分を尽くすためにいっそう努力する人もいます。こうしたことで実際の問題を解決できますか。このような行動については、あなたがたの誰もが完全に理解しています。無力感を覚えたとき、あるいは真理や神の旨を実際に知ることができるよう、神の啓示を得たいと渇望するとき、あなたに一番必要なものは何ですか。大量の食事でも二、三の優しい言葉でもなく、ましてや束の間の慰めでも肉の満足でもありません。あなたに必要なのは、自分がすべきことは何か、それをどうすべきか、そして真理とは何かを、神から明瞭に直接伝えてもらうことです。ほんの少しでもそれを理解したら、良い食事を食べたときよりも心の中で満足感を覚えませんか。心が満たされたとき、心と自分の存在全体が真の安らぎを得られるのではないですか。この例と分析から、わたしが「人の子は安息日の主である」という文章をあなたがたと分かち合いたい理由が理解できたでしょうか。この文章が意味するのは、神から生じるもの、神が所有するものと神そのもの、および神に関する一切のことは、他の何より偉大だということです。そこには、あなたがそれまで最も貴重だと信じていた物事や人も含まれます。つまり、神の口から言葉を得られなかったり、神の旨を理解できなかったりすれば、その人は安らぎを得られないのです。あなたがたは今後の経験のなかで、わたしが今日あなたがたにこの聖句を考察してほしいと望んだ理由を理解するでしょう。これは非常に重要なことです。神が行なうことはどれも真理であり、いのちです。この真理は人間のいのちに不可欠なものであり、それなしで生きることは決してできません。また、それは最も偉大なものだとも言えるでしょう。真理は見ることも触れることもできませんが、あなたに対する重要性を無視することはできません。それはあなたの心に安らぎをもたらす唯一のものなのです。
真理に関するあなたがたの理解は、自分自身の状態と一体となっていますか。実生活では、どの真理が、自分が遭遇した人や出来事や物事に関連しているかをまず考えなければなりません。こうした真理の中に神の旨を見出し、自分が遭遇した物事と神の旨を関連づけることができるからです。自分が遭遇した物事について、真理のどの側面がそれと関連しているかを知ることなく、神の旨を直接求めにいったところで、そのような盲目的なやり方で成果を得ることはできません。真理を求めて神の旨を理解したければ、まずは自分にどのようなことが起きているのか、それが真理のどの側面と関連しているかを検討してから、神の言葉の中に、自分が経験したことに関連する特定の真理を探し出す必要があります。次に、その真理の中から自分にふさわしい実践の道を探します。そのようにすることで、神の旨に関する間接的な理解が得られます。真理を探して実践することは、機械的に教義を適用することでも、公式に従うことでもありません。真理は公式のようなものでも、法則でもないのです。真理は死んだものではなく、いのちそのものであり、生きているものであり、被造物が人生において従うべき法則、生きる上でもたなければならない法則です。それは、あなたが経験によって可能な限り深く理解する必要があるものなのです。自分の経験がどの段階に達していようと、あなたは神の言葉や真理から離れることができず、神の性質についてあなたが理解していること、神が所有するものと神そのものについてあなたが知っていることはどれも、神の言葉の中に表わされています。それらには真理と切り離せないつながりがあるのです。神の性質、そして神が所有するものと神そのものは、それ自体真理です。真理は神の性質と、神が所有するものと神そのものを表わす真正なものです。それによって神が所有するものと神そのものは具体的なものになり、またはっきり述べられることになります。神が何を好むか、何を好まないか、あなたに何をしてほしいのか、あなたが何をするのを許すのか、どのような人を嫌ってどのような人に喜ぶかを、それはあなたにはっきり伝えるのです。神が表わす真理の背景から、人々は神の喜び、怒り、悲しみ、幸福、そして神の本質を理解することができます。これが神の性質の現われです。神の言葉から神が所有するものと神そのものを知り、神の性質を理解することを除いて最も重要なのは、実践的な経験を通じてこの理解に達する必要性です。神を知るために自分を実生活から切り離せば、その人は神を知ることができません。神の言葉から何らかの理解を得られる人がいたとしても、その理解は教義や言葉に限られ、本当の神自身と差異が生じることになります。
いま話し合っていることはどれも、聖書に記録された物語の範囲内にあるものです。これらの物語と、そこで起きたことの分析によって、人間は神が表わしてきた神の性質と、神が所有するものと神そのものを理解することができ、それによって神のあらゆる側面をより広く、深く、包括的に、そして徹底的に知ることができます。では、神のあらゆる側面を知るには、これらの物語を通して知るのが唯一の方法ですか。違います。それが唯一の方法ではありません。神の性質をより十分に知るには、神の国の時代における神の言葉と働きのほうが役立つからです。しかし、神の性質を知り、神が所有するものと神そのものを理解するには、人々が親しんでいる聖書の中の実例や物語を通して行なうほうがより簡単だと思います。裁きと刑罰の言葉、および神が現在表わしている真理を一語一語取り上げ、それによってあなたに神を理解させようとすれば、あなたはあまりに退屈で面倒だと感じ、中には神の言葉は型通りだと感じる人さえいるでしょう。しかし、こうした聖書の物語を例として取り上げ、神の性質を知る手助けとすれば、人々は退屈さを感じません。これらの例を説明する過程で、気分や感情、思いや考えといった、神の心にそのときあった事柄の詳細は人間の言葉で語られており、その目標はひとえに、神が所有するものと神そのものが型通りのものでないことを人々が理解し、感じ取るようにすることだと言えるでしょう。それは伝説でもなければ、人々が見たり触ったりすることができないものでもありません。それは実在するもの、人々が感じ取って理解できるものなのです。これが最終的な目標です。この時代に生きる人々は祝福されていると言えるでしょう。聖書の物語を用いることで、神の以前の働きについて認識を広げ、神が行なった働きを通して神の性質を知ることができるからです。そして神が表わしてきた性質を通じて、人類に対する神の旨を理解し、神の聖さと人間への配慮の具体的な現われを理解することができます。このようにして、人々は神の性質をより詳細に、より深く知ることができるのです。これはあなたがたの誰もがいま感じられることだと思います。
主イエスが恵みの時代に完成させた働きの中に、神が所有するものと神そのものに関するもう一つの側面を見ることができます。それは神の肉によって表わされた側面であり、人々は神の人間性のおかげでそれを見て理解することができました。人々は人の子の中に、受肉した神がどのように人間性を生きたかを見、肉を通じて表わされた神の神性を理解したのです。これら二種類の表われにより、人間は極めて現実的な神を理解し、神に関する別の考えを形作ることができました。しかし、創世から律法の時代の終焉に至るまで、つまり恵みの時代の以前、人々が見聞きして経験した神の側面は、神の神性、無形の領域における神の言動、そして見たり触れたりすることのできない、神の真の実体から表わされた事柄だけでした。これらのことにより、神が圧倒的に偉大であり、自分は神に近づくことができないと、人々は往々にして感じました。神が人間に対して通常与える印象は、神は知覚できることもあればできないこともあるというものです。そして人々は、神の思いや考えはすべて神秘的であり、捉えどころがないので、それらに到達する術はなく、まして理解や認識を試みることすら不可能だと感じました。人間にとっては神に関するすべての事柄が、自分たちには見ることも触れることもできないほどはるか遠くに離れていたのです。神は天高くにいて、まったく存在しないかのようでした。そのため人間にとって、神の心や思い、あるいは神のどんな考えも理解不可能であり、到達することさえ不可能でした。神は律法の時代にある程度の具体的な働きを行ない、また具体的な言葉を発したり、具体的な性質を表わしたりすることで、人間が神に関する真の理解と認識を得られるようにしましたが、結局のところ、神が所有するものと神そのものに関するそれらの表われは無形の領域から生じたものであり、人々が理解したこと、知ったことは依然として、神が所有するものと神そのものがもつ神性の側面でした。人間は、神が所有するものと神そのものにまつわるこうした表われから具体的な考えを得ることができず、彼らの神に対する印象は依然、「出現と消滅を繰り返す、近づきがたい霊体」という範疇に留まっていました。神は物質界に属する特定の物体や姿を用いて人々の前に出現することはなかったので、人々は人間の言葉で神を定義することができないままでした。そして心と頭の中では、たとえば神の身長、体重、外見、好み、そして性格などといったことについて、自分たちの言葉を使って神の基準を定め、神を有形化したい、人間化したいといつも望んでいました。事実、神は心の中で、人々がこのように考えていたことを知っていました。神は人々が必要としているものを極めて明確に理解しており、当然ながら、自分が何をすべきかも知っていたので、恵みの時代には違う方法で働きを行ないました。この新しい方法は神性と人間性の両方によるものでした。主イエスが働きを行なっている間、人々は、神には数多くの人間的な表われがあることを知りました。たとえば、神は踊ったり、婚礼に列席したり、人間と親交したり、人間と会話したり、様々な事柄を話し合ったりすることができました。さらに、主イエスはその神性を示す働きを数多く成し遂げましたが、当然ながらそうした働きはどれも神の性質を表わし、示すものでした。その間、神の神性が普通の肉において具体化され、人々が見たり触れたりできるようになったとき、彼らは神が出現と消滅を繰り返す存在、自分たちが近づけない存在だとは感じなくなりました。それとは逆に、人の子の一挙手一投足、言葉、そして働きを通じ、神の旨を把握したり、神の神性を理解したりすることを試みられるようになったのです。受肉した人の子は、その人間性を通じて神の神性を表わし、神の旨を人類に伝えました。また、神の旨と性質を表わすことで、霊的領域に暮らし、見ることも触れることもできない神を人間に表わしたのです。人々が見たのは、肉と骨から成る、姿形のある神自身でした。そうして受肉した人の子は、神の身分、地位、姿、性質、そして神が所有するものと神そのものを、具体的かつ人間的なものにしました。人の子の外見は、神の姿に関してある程度の制約があったものの、人の子の本質、および人の子が所有するものと人の子そのものは、神自身の身分と地位を完全に示すことができました。ただ表わし方に違いがあっただけなのです。人間性と神性の両方において、人の子が神自身の身分と地位を示していたことは否定できません。しかし、この時期、神は肉を通じて働きを行ない、肉の見地から語り、人の子の身分と地位をもって人間の前に姿を見せたのであり、人々はそれによって、人類の間における神の真の言葉と働きに遭遇し、それらを経験する機会が得られました。それはまた、謙虚さの中にある神の神性と偉大さについて、人間が見識を得ることを可能にするとともに、神の真正さと実在に関する予備的な認識と定義を得ることも可能にしました。主イエスが完成させた働き、イエスが働きを行なう方法、および言葉を述べる観点は、霊的領域にある神の真の実体とは異なるものでしたが、イエスにまつわる一切のことは、人類がかつて見たことのない神自身を真に示しており、その事実は決して否定できません。つまり、神がどのような形で現われるか、どの観点から言葉を述べるか、どのような姿で人類と向き合うかにかかわらず、神は他ならぬ神自身を示すのです。神は誰か一人を示すことも、堕落した人類の誰かを示すこともできません。神は神自身であり、それを否定することはできないのです。
『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)