主イエス様を信仰する私たちの兄弟姉妹たちは誰もが恵みの時代に主イエス様が人類に対する贖いの働きをなさったことを知っています。主は私たちに思いやりと寛容をお与えくださり、寛容であり、我慢強くあること、そして悔い改めて告白することを教えてくださっただけでなく、盲目を見えるようにして、足の不自由な者を歩けるようにしたり、らい病患者を癒されたり、5000人を5つのパンと2匹の魚で食べさせたり、ラザロを死から蘇らせる等、多くの奇跡も起こされました。これら奇跡の中には神の権威を表すものがありません。しかし、私はヨハネによる福音書第11章43-44節を読みました。「こう言いながら、大声で『ラザロよ、出てきなさい』と呼ばわれた。すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、『彼をほどいてやって、帰らせなさい』。」
私は聖書のこの箇所を読んだ後、当時ラザロが死んでから既に4日も経っており、彼の体は悪臭を放ち始めていたかもしれないのに、主イエス様の一言で彼は死から蘇ったとあるが、この出来事の裏に隠された神の御旨は一体何だったのだろうと思いました。私はこの疑問には長い間頭を悩まされています。私の心の中にあった疑念はある書籍に書かれていた言葉を読むまで解決しませんでした。
書籍にはこう書かれています:「主イエスがこのような業を行ったことは、この時代において極めて意義深かった。神は受肉していたので、人々は神の物理的存在、神の実際的な側面、わずかな神の側面しか見ることができない。たとえ一部の人々が神の性格や神が持っているであろうと考えられる力を見て理解したとしても、主イエスがどこから来たか、主の真髄は何か、自分達が見る以上にイエスが行うことのできる物事が何かを知る者は誰も居なかった。そうしたことは人類にとって未知であった。こうした事柄の証拠を求め、真実を知ることを望む者が大勢居た。神は、何らかの業を行い、神の身分を証明することが出来たであろうか。それは神にとって極めて容易であった。神はいつでもどこでも、何らかの業を行い、神の身分と真髄を証明することが出来たが、神は計画通りに、段階的に業を行った。神が無分別に業を行うことはなく、神は最適な時期と機会が到来するのを待って、人間が目の当たりにするのが最も有意義な業を行った。こうした方法により、神の権威と身分が証明された。それでは、ラザロの復活は主イエスの身分を証明出来るものであっただろうか。その点について、「こう言いながら、大声で『ラザロよ、出てきなさい』と呼ばわれた。すると、死人は…出てきた。」という聖句を検討する。主イエスがこの業を行った時に言ったのは、「ラザロよ、出てきなさい」のひと言であった。その後ラザロが墓から出て来たが、これは主のひと言で達成された事であった。」
この言葉の節を読み、私は、主イエス様が2000年前に働かれ、人間の前に現われた時、主が誰であったかを知る者はいなかったことを知りました。多くの人々が主に対する好奇心と疑念で満ちていました。主に従っていた弟子たちも主の身分には気が付きませんでした。主を先生と呼ぶ人がいれば、主は最も偉大な預言者だと言った人もいました。この事実からすると、その時代に主の真の身分を知っていたのは数人しかいなかったことが分かります。
主イエス様は御自身の身分を人類に証明するために、死者を蘇らせる奇跡を使って御自身の権威と御力を表し、人間に自分が神自身であることを知らせようとされました。主がこの奇跡を起こされたことを受けて、私は主はお話しになる前に、天の神に祈りを捧げるための何等かの儀式を遵守されたり、祭壇を準備されることは無かったということを知りました。主はただ大きな声でこう言われたのです、「ラザロよ、起きよ。」そして、死後4日も経っていたラザロが墓から出てきたのです。神が一言仰るだけで、ことは成就します。過去に存在した預言者たちも多くの奇跡を起こしましたが、死者を蘇らせるという奇跡はどの預言者でも起こすことはできなかったでしょう。ラザロを死から蘇らせたこの奇跡は主イエス様の身分、すなわち受肉された神であることを証明しました、なぜなら冥界への鍵は神のみが持っておられるからです。私たちがいつ生まれて、いつ死ぬかは神によってのみ決められています。冥界からのしもべを含めた悪霊とサタンは人類の生死を意のままにすることはできません。この奇跡を起こせるのは神御自身のみなのです。
主イエス様がラザロを死から蘇らせる奇跡を起こされたことによって、私たちは主の身分は神御自身であることを認識し、主の真の身分、そして主の有するものと主そのものにおいて完全に新しい認識を得ることができ、私たちはやっと主を心から信じ、主に付き従うことができるのです。主イエス様が起こされたこの奇跡は極めて意味深いものなのです。
書籍にはこう書かれています:「主イエスがラザロを死から復活させる時、主が使った言葉は「ラザロよ、出てきなさい」というひと言だけである。主はそれ以上の言葉を用いなかったが、そのことは何を意味するであろうか。こうした事柄は、死者を復活させることを含めて、神があらゆる事を言葉により実現可能であることを示している。神が万物と世界を創造した時、神はこれらを言葉により創造した。神は言葉で命じ、すなわち権威ある言葉を用い、その言葉通りに万物が創造された。創造は、このようにして行われたのである。主イエスが述べたこのひと言は、天地と万物を創造した時に神が述べた言葉と同じであり、主イエスの言葉には神と同じ権威、創造主と同じ力があった。万物が神の言葉により形成され、存在したのと全く同じようにして、主イエスの言葉によりラザロが墓から出たのである。ラザロの復活は、受肉した身体により証明され、実現された神の権威であった。この種の権威や能力は、創造主と、創造主が形あるものとなった人の子のものである。神がラザロを死から復活させることにより、人間に啓示された知識は、その事実である。」
この書籍を読んだ後、私はラザロを死から蘇らせたこの奇跡は私たちに主イエス様の真の身分が受肉された神の肉であることを知らせてくれるだけでなく、「主イエス様は外見は平凡で普通に見えても、主の御口から出る御言葉は権利と力を兼ね備えた真理であり、人間の出生と死を意のままにし、万物の生死を支配することができる」ということに気が付きました。
創世記によると、神は最初に天と地と存在する全てを御言葉によって創造されたことが分かります。その後すぐに、神はアダムを土から創造され、いのちの息を吹き入れになり、アダムは魂のある生きる人間となりました。神は天と地と万物を創造する権威をお持ちであり、人類にいのちの息を吹き入れることがおできになります。万物は神の御言葉によって確立され、そして完全にされます。神の御言葉は人間にいのちを与えることができると同時に、人間を死なせることもできます。神の御言葉は全てを達成することが可能で、さらには人類にいのちを提供することができます。ラザロを蘇らせた奇跡を通じ、主イエス様は、神は肉となられましたが、それでも神御自身のままであられ、唯一なる権威と御力をお持ちであり、そのような御力はいかなる創造物も持つことができないものであることを私たちに知らせてくれています。
主に感謝します!この書籍を読んでいると、神が有するもの全てと神そのものに関する深い理解を得ることができ、主に付き従う信念もさらに忠実になります。今後は、どのようなトラブルや困難に遭遇しようとも、神が私の護衛であられ、頼みの綱であられると思っている限り、私は自信と力を持つことができるでしょう。主に感謝します!全ての栄光、主にあれ!