太陽のような黄色い花が芝生の上に点在しています。これらの花はバラのように華やかでもなければ、百合のような上品さもありません。これらの花は美しいドレスも、豊かな果実も身に着けず、注目もされません。その姿は、丘でも、空き地でも、道端でも、街角でも、いたる所で見受けられます。秋が来ると、これらの花は徐々に熟して、命の種を付けた無数の小さな傘のふわふわの白ボールとなり、風に乗って、命の種をいつまでも遠くまで飛び続けます。それがタンポポです!子供たちはタンポポの綿毛にとても執着しているようです。彼らは誰もが綿毛を摘み取り、種の傘を吹き飛ばします。小さな傘がふわふわと飛んでいくのを見ると、彼らの優しくあどけない顔が決まって幸せそうな笑顔になります。これが、タンポポが人々にもたらす喜びです⋯⋯
私はタンポポが私たちにもたらすこの喜びも好きですが、本当に好きなのは、それが私たちにもたらす利益です。神様がそれを創造されました。それは医薬品としても優れた薬草であるだけではなく、その生命力は特に粘り強いものがあります:風に乗って移動し、種が着陸した所で根を張り、花を咲かせます。何年も何年も、命を地球のすべての片隅にもたらすという独特の使命を厳密に守っています。タンポポの綿毛が風に乗ってふわふわと飛んでいるのを見る度、主イエス様の次の御言葉について考えずにはいられません:「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」(ヨハネによる福音書12:24)。そうです。種は死にますが、それは10倍ないし100倍の果実をもたらします。まるでタンポポの種のように、神様の福音は、愛といのちにより、世界中のあらゆる場所に行き渡っています。
私は聖書に次の記述を思い出します:「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである」(ヨハネによる福音書3:16-17)。「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒行伝1:7-8)。聖書のこれらの聖句から、私は神様の愛が広大であることを深く感じました。当時、神様は、33年と6ヶ月の間、人の息子として、食べ、眠り、人々と暮らすことで、ユダヤでその御働きを行われました。神様は人々が罪にまみれて生活する惨めさを目の当たりにされ、正しい道を歩けるよう、彼らを導く御言葉を発せられました。最終的に、彼らが罪に苦しむいのちを排除できるよう、神様は十字架にかけられ、罪深い肉のようになり、人々の罪を引き受け、彼らの罪が贖われるようにしました。神様の御知恵と全能性が人類の罪を贖う御働きを達成された後、神様はその福音を世界の果てまで説くよう、弟子達に委ねました。神様に運命づけられ、使命を委ねられた多くの敬虔なクリスチャンは、聖霊により動かされ、その使命を担い、布教の旅に出ました。彼らに待ち受ける旅が過酷で困難なものであっても、彼らは、より多くの魂が神様の側に帰依できるよう、自らの命を賭して、海を渡って行きました。神様の御導きのもと、神様の福音は世界の隅々まで広まり、神様の御名は誰もが知り、既に日常語となっています。
私はため息をつかずにはいられません:何世代にも渡り存在した数多くの宣教師は目立つことなく、名前すら知られていませんが、私は彼らの信仰と特異な経験に強く感心しました。彼らは計り知れない苦しみに耐え、笑われ、バカにされ、多くの人々に叩かれ叱責され、迫害され、投獄されました。中には命を落とす人もいましたが、躊躇せずに前進し続けました。躊躇せずに福音を広める道を歩むことを可能にしたのは、どのような力なのでしょうか?私は主イエス様の御言葉を思い出しました:「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコによる福音書16:15)。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(ルカによる福音書9:23)。主の御言葉から、私は次のことを理解しました:時代を超えた聖人達は、神様の御激励により福音を説くことができたのです。彼らは、人類の罪を贖うという神様の福音を世俗的な人々に説くのだという使命を掲げて、これを行いました。より多くの人が神様の御心を理解し、十字架を背負い、主についていき、主と力を合わせて魂を救う重荷を引き受け、有意義ないのちを生きていけるようになることを神様が強く望んでおられると、私は感じます。
福音を説く兄弟姉妹は目を引くような外見をしてませんでしたが、彼らの口から伝えたのはすべて、偽りのない言葉でした。彼らは親切な心で、神様の御言葉を記載した本を次から次へと人々に渡していましたが、彼らが得たものは拒絶やからかいでした。他者から侮辱や中傷を受けることさえありました。一方で、時には神様の福音を人々が受け入れるという喜びを味わうこともありました。結果がどうであれ、彼らには神様の愛に報いたいという敬虔なクリスチャンの心根を変えることができませんでした。これを目にする度、私の心は感動し、創造主を満足させるための働きを行う機会が得られたことはとても恵まれたことなのだと感じました。現在、神様の御前に来ていない人々が未だに数多くいます。私は全力を尽くし、神様と協力して、神様の福音を周りの人々に説き、神様の御前により多くの魂をお連れしたいと思います。それにより、より多くの人々が世俗的な快楽の害を断ち切り、神様を知り、神様を賛美し、 神様の注意深い御目のもとで守られるようになることを望むからです。これは、創造物である私の使命です。
タンポポの綿毛が運ぶ種は、まだふわふわと飛び、大地に蒔かれている最中です。使命、期待、深い愛により、これらは、世界のいたる所まで飛んでいきます⋯⋯