神が人類のために用意する日常の食べ物と飲み物(2)
わたしたちがこれまで話し合ってきた話題は何ですか。最初に、人類が暮らす環境、その環境のために神が行ったこと、そして神がした用意から話を始めました。それから神が采配した物事を話し合いました。つまり、神が人類のために用意した被造物同士の関係や、これらの被造物が人類に危害を加えるのを防ぐために、そうした関係をどのように采配したかです。神はまた、被造物の中にある様々な要素が人類の環境に与え得る害を軽減し、万物がその目的を最大限果たし、好ましい環境と有益な要素を人間にもたらすようにして、かくして人類がそうした環境に順応し、生命と繁殖の周期を着実に繰り返すことができるようにしました。その次は、人体が必要とする食料、すなわち人類の日常の食べ物と飲み物について話しました。これもまた人類の生存の必要条件です。つまり、人体は、呼吸するだけ、日光や風だけ、あるいは適切な気温だけでは生きられないということです。人間は胃袋を満たす必要もありますが、神は何も見過ごさず、人間の腹を満たすものの源、つまり人類の食料源も用意しました。こうした豊富で潤沢な産物、すなわち人類の食べ物や飲み物の源を見て、神は人類とすべての被造物の供給源だと言えるでしょうか。創造の際、神が草木だけ、あるいはその他多数の生き物だけを造り、それら様々な生き物や植物が、どれも牛や羊が食べるためのものだったり、あるいはシマウマや鹿やその他様々な動物のためだったりして、たとえばライオンはシマウマや鹿などを食べ、虎は羊や豚などを食べるものの、人間が食べるのに適したものが一つもなかったとしたら、それでうまく行っていたでしょうか。うまく行かなかったはずです。人類はさほど長く生存できなかったに違いありません。人間が木の葉だけを食べたとしたらどうでしょうか。それでうまく行っていたでしょうか。人間は羊のために用意された草を食べられるでしょうか。少し試すだけなら害はないでしょうが、そのようなものを長期間にわたって食べ続けたとしたら、人間の胃はそれに耐えられず、長くは生きていられなかったはずです。動物は食べることができても、人間にとっては有毒なものさえあります。動物がそれを食べても何も起きませんが、人間が食べるとそうではありません。言い換えると、神は人間を造ったので、人体の原則や構造、人間に必要なものを最もよく知っているのです。人体の構成、成分、必要なもの、人体の内臓の機能、そしてそれらが様々な物質をどのように吸収し、排出し、代謝するかを、神は完全に把握しています。人間はそれを把握しておらず、軽率にものを食べたり、無闇に自制に走ったりして、それによって不均衡を引き起こします。神があなたのために用意したものを正常な方法で食べ、享受すれば、あなたが健康問題に見舞われることはありません。時に気分がすぐれず、鬱血があったとしても、それは何ら問題ではありません。ただ特定の植物を食べればそれでよく、鬱血は解消されます。神はこうしたことのすべてについて用意をしたのです。そのため神の目から見ると、人類は他のどの生き物よりもはるか高いところにいます。神は各種の植物のために環境を用意し、各種の動物のために食料と環境を用意しましたが、環境に関する人類の必要条件は最も厳しく、どんな些細な点も見過ごすことができませn。見過ごしてしまえば、人類は普通に発展して生き、繁殖し続けることができないでしょう。神は心の中でこれを一番よく知っています。それを行った際、神はそれを他の何よりも重要視しました。あなたが人生において見て享受できる平凡なもの、あるいは生まれたときから持っていて、見て享受している何らかの物事の重要性を、おそらくあなたは感じ取れないかもしれませんが、神ははるか昔に、あるいは密かに、あなたのために用意していたのです。人類にとって好ましくなく、人体に危害を加え得る否定的な要素を、神はすべて最大限に除去し、緩和してきました。これは何を示していますか。今回人類を造った際の、神の人類に対する姿勢を示しているのでしょうか。その姿勢はどのようなものだったでしょうか。神の姿勢は慎重かつ誠実であり、いかなる敵勢力、あるいは自分のものではない外部の要因や条件による干渉を許しませんでした。このことの中に、今回人類を造って経営した神の姿勢が見て取れます。では、神の姿勢とは何ですか。人類が享受する生存環境や生活環境、日常の食べ物、飲み物、および必需品を通して、神が人類を創造して以来有してきた、人類に対する責任の態度と、今回人間を救う決意を見て取れます。こうした物事の中に、神の真実性が見えるでしょうか。神の不思議はどうでしょうか。神の計り知れなさはどうでしょうか。神の全能はどうでしょうか。神は自身の全能かつ知恵深い方法で、全人類に施し、すべての被造物に与えます。あなたがたに多くのことを語った今、神は万物のいのちの源であると、あなたがたは言うことができるでしょうか。(はい。)それは間違いありません。疑いがあるでしょうか。(いいえ。)神による万物への施しは、神が万物のいのちの源であることを示すのに十分です。なぜなら、神は、万物が存在し、生き、繁殖し、継続することを可能にしてきた施しの源であり、神自身以外の源はないからです。環境に関する人々の最も基本的な必要性であれ、日常生活に必要なものであれ、あるいは神が人々の霊に施す真理の必要性であれ、神は万物に必要なものと、人類に必要なものをすべて施します。あらゆる点で、神の身分と地位は人類にとって大いに重要であり、万物のいのちの源は神自身だけなのです。つまり、神はこの世界、すなわち人間が目で見て感じることのできるこの世界の支配者であり、主人であり、供給者なのです。人類にとって、これが神の身分ではないでしょうか。そのことに誤りは一切ありません。したがって、空飛ぶ鳥を見て、神は空を飛べるすべてのものを造ったのだと理解しなければなりません。水中を泳ぐものも存在し、それらにも独自の生存方法があります。土中で生きる草木は春につぼみを付けて芽吹き、秋に結実して落葉し、冬には完全に落葉して冬の気候に備えます。これが、それらの生存の仕方なのです。神は万物を造り、それぞれが異なる形態と方法によって生き、様々な方法を用いてその生命力と生きる形態を示します。生きる方法がどういったものであれ、それらはすべて神の支配下にあります。神が様々な形態の生命体と生き物を支配する目的は何でしょうか。それは人類の生存のためでしょうか。神はいのちの法則をすべて支配しますが、それはひとえに人類の生存のためです。そのことは、神にとって人類の生存がいかに重要であるかを示しています。
人類が正常に生存して繁殖できることは、神にとってこの上なく重要であり、ゆえに神は、人類とすべての被造物に絶えず施しています。神はあらゆるものに様々な方法で施しており、また万物の生存を維持することで、人類が引き続き前進し、正常な生存を維持できるようにしています。これらが、今日のわたしたちの交わりにおける二つの側面です。その二つの側面とは何ですか。(巨視的観点からは、人間が生活する環境を神は造られました。これが一番目の側面です。また、人間が必要とし、見て触れることのできる物質的なものを、神は用意なさいました。)それら二つの側面を通して、わたしたちは本日の主題について交わりました。その主題は何ですか。(神は万物のいのちの源である、です。)今では、この主題についてのわたしの交わりにそうした内容がある理由を、多少は理解できたはずです。これまで、その主題と無関係の話があったでしょうか。まったくありませんでした。おそらく、これらの話を聞いたあなたがたの中には、ある程度の認識を得て、これらの言葉に重みがあり、非常に重要だと感じている人もいるでしょう。一方、文字通りの認識を多少得ただけで、そうした言葉自体に重要性はないと感じている人もいるかもしれません。今この瞬間、あなたがたがこれをどのように理解しているかにかかわらず、あなたがたの経験がある特定の日に到ったとき、あなたがたの認識がある点に達するとき、つまり、神の業と神自身に関する認識がある特定の点に達したとき、あなたがたは自分自身の実践的な言葉を用いて、神の業について深遠な真の証しをするでしょう。
あなたがたの現在の認識はいまだに極めて表面的で、字句の域を出ていませんが、これら二つの側面に関するわたしの交わりを聞いた後は、少なくとも、神が人類に施すためにどのような方法を用いるか、神が人類に何を施すかを認識できるものと、わたしは思います。あなたがたには基本的な概念と理解があるでしょうか。(はい。)しかし、わたしが交わったこれら二つの側面は、聖書と関連しているでしょうか。神の国の時代における神の裁きと刑罰に関連しているでしょうか。(いいえ。)では、なぜわたしはこの二つの側面について交わったのですか。それは、神を知るにあたり、人間はこれらの側面を理解しなければならないからですか。(はい。)これらを知ることは大いに必要であり、これらを理解することも大いに必要です。神の全体を理解しようと求めているからには、自分自身を聖書に限定したり、人間に対する神の裁きと刑罰に限定したりしてはいけません。わたしがこのように言う目的は何ですか。それは、神が選民だけの神でないことを、人々に知らしめるためです。現在あなたは神に付き従っており、神はあなたの神ですが、神に付き従わない者たちの神でもあるのでしょうか。神は、神に付き従わない者たちの神なのでしょうか。神は万物の神なのでしょうか。(はい。)では、神による働きと業の範囲は、神に付き従う者たちだけに限定されているのでしょうか。(いいえ。)神の働きと業の範囲は何ですか。最も狭いレベルでは、神の働きと業の範囲には人類全体と万物が含まれます。最も広いレベルでは宇宙全体が含まれ、人には見ることができません。したがって、神は全人類のあいだで働きと業を行うと言うことができ、人々が神自身のすべてを知るようにするには、これで十分です。神を知りたい、神を真に知りたい、神を真に理解したいと思うなら、神の働きの三段階や、神が過去になした働きの物語に限定してはいけません。そのようにして神を知ろうとすれば、神に制約を課し、神を閉じ込めていることになります。神をあまりに矮小化しているのです。そうすることで、人はどのような影響を受けるでしょうか。あなたは神の不思議と至高、神の力と全能、そして神の権威の範囲を決して知ることがありません。そのような認識は、神が万物の支配者であるという真理を受け入れる能力、そして神の真の身分と地位に関する認識に影響を及ぼすはずです。言い換えると、神に関するあなたの認識の範囲が限られているなら、あなたが受け取れるものも限られています。範囲を拡張して視野を広げる必要があるのは、このためです。神の働きの範囲、神の経営の範囲、神の支配の範囲、そして神が経営し、支配している万物の範囲をすべて理解することを、あなたは追い求めるべきです。そうしたことを通して、神の業を認識するようになる必要があるのです。そのような認識があれば、神が万物を支配し、経営し、万物にあらゆるものを施していることを、知らないうちに感じるようになります。それと同時に、自分が万物の一部であり、万物の一員であることを実感します。神が万物を施すので、あなたも神の支配と施しを受け入れます。これは誰も否定することのできない事実です。万物は神の支配下でそれぞれの法則に従っており、また神の支配の下、それぞれの生存のための規則があります。また人類の運命や人類に必要なものも、神の支配と施しに結びついています。それゆえ、神の統治と支配下において、人類と万物は相互に関連し、相互に依存し、織り交ぜられています。これが、神による万物創造の目的と価値なのです。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VIII.」(『言葉』第2巻)