真心をもって主を信じるすべての兄弟姉妹はこう思っています。自分は主イエスを信じたので、もう救われました。聖書に「実に、人は心で信じて義うとされ、口で公に言い表して救われるのです」(ロマ10:10) と書かれているからです。こういうわけで、主にある多くの兄弟姉妹は「信じることによって救われる」としたら、永遠に救われることになると思っています。では、このような観点は神の言葉、真理に合うでしょうか。次に、本当に救われるとはどういうことかという面の真理について、わたしたちは一緒に交流しましょう。
わたしたちはみなこのことを知っています。律法の時期、ヤーウェ神がモーセにイスラエルの民をエジプトから導き出すように命じられる前に、すべてのイスラエルの民はエジプトのファラオの手の下で奴隷になって、苦難をなめ尽くし、自由のない生活を送っていました。その結果、彼らの苦しい叫びがヤーウェ神の耳に達しました。ヤーウェ神はイスラエルの民がファロオに虐待されるのを見るに忍びなくて、イスラエルの民をエジプトからカナンの地に導くようにモーセを召されました。イスラエルの民がファロオの手の中から救い出されて、ファロオの暴政から逃れる時、イスラエルの民は「救われ」ました。しかしこれは、彼らがもはやヤーウェ神の救いを必要としないことを意味するのではありません。だから、イスラエルの民がカナンに入る前に、ヤーウェ神はモーセを通して律法を発布されました。それは、イスラエルの民がどのようにヤーウェ神を畏れるか、どのようにヤーウェ神に仕えるか、どのような行動が義なのか、どうすればヤーウェ神の祝福を得られるか、どのような行動が悪なのか、どうすればヤーウェ神に呪われるか、そして人と人がどのように付き合うべきか、どのように生活すべきかなどを知るためでした。神の律法の時期の働きによって、イスラエルの民の生活が次第に正しい軌道に乗るようになり、混乱した局面がなくなりました。特に律法のゆえに、イスラエルの民は罪を犯すとは何か、どのように神にいけにえをささげれば自分の罪をなくすことができるかを知りました。こうして、イスラエルの民はもう一度「救われ」ました。
ところが、律法の時代の末期になって、人はみな律法を守れなくなり、神を畏れる心を失ってしまい、その結果盲の動物、足なえの動物をいけにえとしてヤーウェ神の祭壇にささげました。このままでいけば、人はみな、律法によって罪定めされて死刑にされるという危険に直面します。人を死亡の脅威から救うためには、神は受肉して地上に来て贖いの仕事をし、自分を人の罪祭として十字架につけなければなりませんでした。人が主イエスに祈り主に罪を告白し悔い改めさえすれば、罪の赦しを得ることができます。このように、律法の下の罪人はサタンの手の中から贖われ、もはや律法によって罪定めされて死刑にされることがなくなり、主イエスから与えられた恵みの中に生きるようになりました。こうして、律法の下の人はもう一度「救われ」ました。それは聖書に書かれているとおりです。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」(ロマ8:1)。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」(ロマ10:9)。ここの「罪に定められることはありません」は、律法によって罪に定められないことを指します。ここの「口で公に言い表し、心で信じるなら、あなたは救われる」は、主イエスを信じ、主イエスの十字架の救いを受け入れた後の人は律法を守れなくて律法によって死刑にされることはないことを指します。つまり、わたしたちが主イエスを信じることによって、わたしたちはもはや罪に定められなくなり、神もわたしたちの違犯を覚えなくなり、こうしてわたしたちは救われました。しかしわたしたちはこのことを知るべきです。すなわち、わたしたちの罪が赦されたことは、わたしたちに罪がないことを証明しません。なぜなら、あらゆる信徒は依然として、昼間に罪を犯し、夜に罪を認めるという状態の中で繰り返して生きていて、人の本性の中の根深い罪の根はまだ解決されていないからです。例えば、人の傲慢さ、独りよがり、貪欲、嫉妬、恨み、邪悪、エゴイズムなどのサタン的な毒素は依然として毎日わたしたちに伴っています。そのため、わたしたちは自制できずに罪の中に生きるようになりました。わたしたちは絶えず主に罪を告白しますけれども、わたしたちの罪は減っておらず、かえって絶えず増えています。多数のクリスチャンは家にいる時でさえ、主の栄光を生かし出すことができません。彼らは肉親と一緒にいる時、細かいことにけちけちします。教会の同労者たちの間にも常に嫉妬、論争が生じます。信徒は心がいつもこの世によって引きつけられるので、この世の邪悪な潮流を追求し、肉体の享受を貪り、罪の中に生きています。これらの言動は、人がまだ徹底的に「救われていない」ことを十分に証明します。つまり、わたしたちは主イエスに頼れば、罪の赦ししか得られず、主イエスが当時、人の罪を犯す本性を徹底的に取り除くという仕事をなさらなかったので、わたしたちは本当にきよくなることはできません。
だから、「一度救われたら永遠に救われる」ということは、人の観念、想像であって、全然真理に合いません。主イエスは、一度救われたら永遠に救われるという言葉を言われたことがありません。主イエスの贖いの仕事はただ、人にどのように忍耐し、へりくだり、悔い改め、罪を告白するかを教えるのです。それはただ人が外側で変わるようにし、人の本性の本質を変化させません。わたしたちの置かれている状態から見れば、わたしたちは本当には「救われてい」ません。
これについては、わたしは多くの聖句を調べました。主に感謝します。わたしはやっと聖書の中から答えを見つけました。聖書にこう書かれています。「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」(ペテ一1:5)。「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」(ヘブ9:28)。「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」(ヨハ12:48)。ヨハネの黙示録にはこう預言されています。「また、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた。わたしは、大水のとどろくような音、また激しい雷のような音が天から響くのを聞いた。わたしが聞いたその音は、琴を引く者たちが竪琴を引いているようであった。彼らは、玉座の前、また四つの生き物と長老たちの前で、新しい歌のたぐいをうたった。この歌は、地上から贖われた十四万四千人の者たちのほかは、覚えることができなかった。彼らは女に触れて身を汚したことのない者である。彼らは童貞だからである。この者たちは、小羊の行くところへは、どこへでも従って行く。この者たちは、神と小羊に献げられる初穂として、人々の中から贖われた者たちで、その口には偽りがなく、とがめられるところのない者たちである」(黙14:1-5)。
以上の聖句からわたしたちが分かりますが、神は世の終わりに一段階の仕事をなさり、しかもこの段階の仕事は主イエスのなさった贖いの仕事と異なります。それが聖書に述べられている裁きの仕事である可能性が非常に大きいです。裁きによって、人の罪はきよめられ、最終的に人は徹底的に罪の縛りから逃れます。それは「……その口には偽りがなく、とがめられるところのない者たちである」という預言のとおりです。これは、人がきよめられたことのしるしではありませんか。わたしたちは、あの時こそ罪の性質を徹底的に脱ぎ捨てることができるかもしれません! これで分かりますが、わたしたちの罪の性質がきよめられることができるかどうかは、神のなさる仕事と関係があります。ヤーウェ神と主イエスのなさった仕事は、人を罪から解放する仕事ではなく、ただ人に罪を自覚させ、罪を認めさせるものですから、人はどのように実行しても、罪の縛りから逃れることができません。こういうわけで、人は徹底的に「救われる」こともできません。世の終わりに神が人をきよめる仕事をなさる時こそ、人は徹底的に「救われる」機会があります。それは聖書に「命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである」(黙22:14)と預言されているとおりです。主の啓きに感謝します。それによって、わたしは本当に救われるとはどういうことか、そして最終的にきよめられるための道を知りました。
兄弟姉妹たちよ、わたしたちは今日ここまで交流しましょう。異なった理解やアドバイスがあれば、いつでもわたしたちに連絡してください。すべての栄光、賛美が神にありますように、アーメン!