私たち主を信じる人は皆、終わりの日に主が再来される時に、天国に引き上げられ、天国の美しい生活を享受することを切望しています。では、天国はいったいどこにありますか。どのような人が入れるのですか。どのように入りますか。このテーマの聖句はあなたに天国に入る道を指し示し、あなたは天国に入る望みを実現する機会を得られます。
人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。
その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。
城壁は碧玉で築かれ、都はすきとおったガラスのような純金で造られていた。都の城壁の土台は、さまざまな宝石で飾られていた。第一の土台は碧玉、第二はサファイヤ、第三はめのう、第四は緑玉、第五は縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉石、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ一つの真珠で造られ、都の大通りは、すきとおったガラスのような純金であった。わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。 都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る。都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。人々は、諸国民の光栄とほまれとをそこに携えて来る。
御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、 都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。 のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。
全宇宙の至るところで、わたしの選民はわたしの栄光に住み、比類ない祝福を受け、人々の間に住む人々としてではなく、神と共に住む民として生きる。誰もがサタンの堕落を経験し、人生の苦しさと甘美を経験した。今、わたしの光の中に住み、喜べない者などいようか。そのような美しい瞬間をただ諦め、見過ごすことなどどうしてできようか。民よ。今、わたしのために心で歌を歌い、踊れ。あなたがたの誠実な心を引き上げ、わたしに捧げよ。今、わたしのために太鼓を叩き、奏せよ。わたしは全宇宙に喜びを輝かせる。わたしは人々にわたしの栄光の顔を示す。わたしは轟く。わたしは宇宙を超越する。わたしはすでに人々を支配している。わたしは民により褒めたたえられる。わたしは青い空を漂い、民はわたしとともに動く。わたしは民の中を歩き、わたしの民はわたしを取り囲む。民の心は喜び、その歌は世界を揺るがし、空を砕く。宇宙はもはや霧に閉じ込められず、泥はなく、汚水の集まりはない。宇宙の聖なる民よ。わたしが厳しく見守るなか、あなたがたの真の顔が明らかにされる。あなたがたは汚れに包まれた人々ではなく、ヒスイのように純粋な聖者であり、すべてわたしの愛する人々であり、すべてわたしの喜びである。すべてのものが生き返る。すべての聖人が天に戻ってわたしに仕え、わたしの暖かい抱擁に入り、もはや涙することなく、もはや憂うことなく、自らをわたしに捧げ、わたしの家に帰り、故郷でわたしを無限に愛する。それは不変である。悲しみはどこか。涙はどこか。肉はどこか。地はもはやなく、天は永遠である。わたしはすべての民に現れ、すべての民はわたしを讃える。この生活、この美しさは、はるか昔から、そして永遠に、変わらないであろう。これが神の国の生活である。
御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
第七の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、大きな声々が天に起って言った、「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」。
また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして
一旦、征服の働きが完了すると、人類は美しい世界に連れて行かれる。もちろん、この生活はまだ地上にあるが、現在の人間の生活とは全く違う。それは全人類が征服された後の生活であり、それは地上の人間にとって新しい始まりとなり、人類がそのような生活を送ることは、彼らが新しく美しい領域に入ったという証拠となるであろう。それは地上における人と神の生活の始まりとなる。そのような美しい生活の前提として、人は清められ征服されたあと、造り主の前に服従する。それゆえ、征服の働きとは、人類が素晴らしい終着点に入る前の、神の働きの最終段階である。そのような生活は地上における人類の未来の生活であり、それは地上で最も美しい生活、つまり人が待ち焦がれていたような生活であり、世界史上、人が決して達成したことのないような生活である。それは六千年の経営(救い)の働きの最終的結果であり、人類が最も待ち望んでいたものであり、それはまた、神が人間に約束していたものでもある。
わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。
彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。
いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。
神が人々を完全にする時、神は彼らを清め、人々は清くなればなるほど、神によってより完全にされる。汚れ、反抗、敵対心、あなたの中にある肉に属するものが取り除かれ、あなたが清められた時、あなたは神に愛されるであろう(言い換えれば、あなたは聖者になる)。あなたが神によって完全にされ、聖者になった時、あなたは千年神の国の中にいるであろう。
もしあなたが真理の道を求めることに喜びを感じるのなら、あなたはしばしば光の中に生きている。神の家で効力者であることを喜ぶ人で、人に知られなくとも勤勉に、良心的な仕事をし、決して何かを得ようとせず、常に与える者であるのなら、その人は忠実な聖徒だと言おう。報いを求めず、ただ正直であるのだから。率直であろうとし、すべてを与える覚悟があり、神のために命を犠牲にして証しすることができるのなら、神を満足させることだけを考え、自分のことは考えず、自分のためには何も求めないほど正直なら、そのような人は光に養われ、神の国で永遠に生きる人である、とわたしは言おう。
悔い改めよ、天国は近づいた。
耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。
わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。
夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。
見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。
彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。
神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは「神は真理であり、道であり、いのちなのです」という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちだろうか。神の現れは人が思うようなかたちで来ることはない。ましてや神が人の言うままに現れるようなことはない。神は、自分の判断で動き、自分の計画に従って働く。さらに、神には神自身の目的と方法がある。神は自分のしようとすることを人に相談したり話し合ったりする必要はない。ましてや一人一人に自分がしようとすることを知らせるようなことはない。これが神の性質であり、それはすべての人が認めるべきことである。もし神の現れをその目で見たいと思うなら、神の足跡をたどりたいと願うなら、自分自身の観念というものを超越しなければならない。神にこれをせよあれをせよと命じることは許されない。ましてや神を自分の枠の中に閉じ込めたり、自分の観念の中に押し込めたりすべきでない。そうではなく、どのように神の足跡をたどるべきか、どのように神の現れを受け止めるべきか、どのように神の新しい働きに従うべきかと問うべきなのである。これが人のすべきことである。人は真理ではなく、真理を持っているわけでもない。だから人は探し求め、受け入れ、従うべきである。