兄弟姉妹
こんにちは!私は神様の働きを受け入れたばかりの者です。クリスチャンにとって集会と御言葉を読むことが必要であることは知っており、神様の要求の通りに行動したいと思いながらも、質の高い生活を送るために、もっとお金を稼ごうと毎日忙しくしています。私は毎日、お金のために走り回り、ビジネスの交際も多く、集会や御言葉を読む時間が無くなっています。現在、私は多少は稼げていますが、心の中ではいつも虚しさを感じ、主にも負い目があると感じています。おたずねします。お聞きしたいのですが、忙しい仕事と信仰の集会との間で、私はどう選択すればよいのでしょうか。
暁東
暁東
こんにちは。私も長い間この問題で悩んでいました。その後、神様の言葉を読むことと兄弟姉妹との交わりや支えを通して、私は真理を少し理解できました。自分が何のために忙しく働いているのかを見極め、神様の心意も理解することで、集会することと仕事において、正しい選択ができるようになりました。次に、私は自分の認識を少し交わります。少しでもあなたのお役に立つことを願います。
仕事が忙しくて集会する時間がないことを解決するためには、まず、自分が一生懸命働く理由は何かを知る必要があります。ある人は家族を養うためというかもしれません。単に家族を養うためだけなら、私たちのほとんどは、集会する時間や神様の言葉を読む時間がないほど忙しくはないはずです。実は、私たちは家族を養うためだけでなく、より多くのお金を稼ぎ、家や車を買い、質の高い生活を楽しみ、人々の羨望と高い評価を得るために、肉欲を満たすために一生懸命働いているのです。私たちは肉の安逸のために、あるいは人からの羨望、高い評価を得るために残業したり、さらには金儲けのために時間と精力を費やします。体調を崩すだけでなく、神様の前に来て神様を礼拝する時間もなくなり、知らず知らずのうちに神からどんどん離れていき、やがて神様に救われる機会を失ってしまうのです。
神様は言われます。「実際には、人間の理想がいかに高尚であったとしても、また人間の願望がいかに現実的であり、適切であったとしても、人間が成し遂げたい事、求める事は、二つの言葉と不可分に関連しています。その二つの言葉は、あらゆる人の生涯にとって極めて重要であり、サタンが人間に吹き込みたいことです。その二つの言葉とは何ですか。それは『名声』と『利得』です。サタンは極めて温和な方法、人間の観念に極めてうまく適合する方法、まったく過激でない方法を用いて、それにより人間は、無意識のうちにサタンの生き方や生活の規則を受け入れるようになり、人生の目標や方向性を決定し、またそうすることにより無意識のうちに人生における大志を抱くようになります。そうした人生の大志にどれほど高尚な響きがあったとしても、『名声』と『利得』に複雑に関連しています。偉人や有名人、実はあらゆる人が人生において従う事柄はすべて『名声』と『利得』だけに関連しています。人間はひとたび名声と利得を手に入れれば、それを利用して高い地位や莫大な富を堪能し、人生を楽しむことができると考えます。名声と利得を、悦楽の追求と不徳な肉の快楽を手に入れるために利用できるある種の資本と考えるのです。人間は、自分が求める名声と利得のために、無意識ではあるが率先して、自分の心身や所有するすべて、将来、運命をすべてサタンに引き渡します。こうするのに実に一瞬たりとも躊躇することなく、引き渡したものをすべて奪回する必要にも気づかないままです。このようにしていったんサタンを頼りにし、サタンに忠義を尽くしたなら、人間は自分自身を支配していることができるでしょうか。もちろんできません。人間はすっかり完全にサタンに支配されます。すっかり完全に泥沼に沈み込んだのであり、そこから抜け出すことは不可能です。ひとたび名声と利得の泥沼に陥いると、人間は明るいもの、義なるもの、美しく良いものを求めなくなります。これは、人間に及ぼす名声と利得の魅力が強すぎるため、それが人間が生涯を通して終わりなく永遠に追求するべきものとなってしまうからです。これが真実ではないですか」 。
神様の言葉はとても明確です。考えてみてください。私たちは小さい頃から、「お金は万能ではないが、お金がないと何もできない」「人は金銭のために身を滅ぼし,鳥はえさのために滅ぶ」「一頭地を抜く」「人はよいことをして名を残すべきである」など、これらのサタンの生存法則に影響されて、私たちは金銭を崇め、肉欲的な快楽を求め、人よりも優位に立とうとし、名声や地位を何よりも大切にするようになりました。これらの誤った思想に支配され、私たちは単に家族を養うために働くのではなく、むしろ、人々の賞賛と高い評価を得るためにキャリアを積むことを追求しています。そのため、私たちは金儲けの機械と化し、疲弊して苦しい生活を送っています。名声と富を追求するあまり、私たちの心はますます神から離れ、神様を信じ、神様を礼拝することに興味を示さなくなり、中には集会することや神様の言葉を読むことは金儲けの邪魔になると感じて、集会に参加せず、神様の言葉を読むことをやめてしまい、知らず知らずのうちに神様との正常な関係を失ってしまう人もいます。ここから分かるのは、サタンは「名利」を利用して私たちを神様から遠ざけ、私たちを金銭、名利、肉の欲に囚われるようにさせます。私たちと神様との正常な関係をかき乱し、私たちを神様から遠ざけ、神様を裏切らせ、最終的には完全にサタンの虜になってしまいます。これはサタンの策略であり、邪悪な意図です。ですから、私たちは名利はサタンが私たちを惑わし、苦しめ、食い物にするための方法であり、私たちは名利を追求することは誤った道であることをを見極めるべきです。私たちは自分の中にある誤った追求の考えを自覚し、見極めることができれば、仕事と神様への信仰との間で正しい選択をすることができます。
集会に参加することは、神様を信じ、神様を礼拝することの重要な実践であることを、私たちは知るべきです。なぜなら集会は、私たちが神様の言葉を読んで交流する場所であり、集会の中で多くの神様の言葉を読んでこそ、私たちはより早く真理を理解し、神様の心意と要求を理解できます。そうしてこそ、私たちは問題にぶつかった時に、常に神様の言葉に従って実践できます。神様を信じて真理の実際に入り、神様の承認を得られるのです。ですから、私たちが神様の承認を得られるためには、集会への参加を守り抜くことが重要なのです。真に神様を信じる人は常に神様の御前に来て、集会を増やし、神様の言葉を多く読むべきです。もし、私たちが神様を信じていても混乱した形で従うのであれば、一日中仕事や家庭で忙しく、集会に参加することを重視せず、神様の言葉を読むこともあまりなく、さらに神様の言葉を実践することもありません。そのような神様への信仰がどうして神様に承認されるでしょうか。
神様は言われます。「神への信仰から益を得られるのは、食糧や衣服などよりも、自分の人生において何より大切なものとして、神の信仰に取り組んだ場合だけです。時間がある時だけ信仰し、自分の意識を残らず信仰に捧げることができず、いつも混乱に捕らわれていたら、あなたは何も得られません」。ここから分かるのは、神様を信じる者は、神様を信じ、神様を礼拝することを第一とするべきです。そうでなければ、自分の意のままに神様を信じていても最後には排除されます。したがって、神様と正常な関係を維持し、集会に参加すること、祈ること、真理を交わることは、私たち神様を信じる者すべてが持つべき実践であり、一人の被造物として果たすべき責務でもあります。もし、私たが神様を信じながら、ただ口先で認め心の中で信頼するだけで、集会に参加することや真理を交わることを重視しないなら、私たちは神様と無関係になり、神様の目には不信仰な異邦人と同じです。私たちがこのように神様を最後まで信じても、神様の承認は得られません。真理といのちを得ることなく、必ず異邦人と同じように、神様に憎まれ、排除されるのです。ですから、私たちが集会への参加を守り通し、神様から離れないでいることは、私たちが真理を得て神様に承認されるかどうかに直結します。
お金や名誉を求めているわけでないのに、実際に仕事が忙しい場合、私たちはどうしたらよいでしょうか。主イエスは言われました。「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネによる福音書4:24)。神様は霊です。私たちはいつでもどこでも、誠実な心をもって神様を礼拝し、神様との正常な関係を築くことができます。一つの方法として、仕事中、手元は忙しく作業していても、心は神様の前に落ち着かせ、神様の愛と救いについて考え、御言葉の真理を黙想することができます。
また、職場は私たちが御言葉を実際に経験する現場でもあります。以前、私は、「仕事は仕事、信仰は信仰、ただ集会することだけが正式に神様を礼拝することだ」と思っていて、職場において真理と御心を求めることを知りませんでした。実際、私たちが毎日出会う人や物事は、それが大きなものであれ小さなものであれ、神様が私たちのために注意深く計画してくださっているということです。私たちは、心の中に神様が不在で、真理も求めていなければ、ただ自分の頭脳で分析して研究し、物事の表面的な是非や正誤に囚われてしまいます。神様の支配と采配に服従できず、神様に文句を言ったり、神様を誤解したりさえして、暗闇に陥ってしまい、ひどく苦しむことになります。ただ御心を求めることによって、道が開けます。
たとえば、少し前の話ですが、私は、会社で数名の同僚が上司の前では上手いことを言いながら、実際は怠けて適当に仕事しているのを目にしました。最初、私は彼らの行為に反感を抱いていましたが、段々、彼らの適当な仕事ぶりは効率がよく稼ぎも多く、自分は丁寧で真面目に仕事しているから効率が悪く、同僚より給料が低いのを見て、私は悔しくなりました。そこで、私も同僚のやり方をまねて適当に仕事をするようになりました。しかし心に不安を感じたので、私は神様の前に来て祈りました。そして、自分はサタンの価値観によって生きており、誠実な人間ではなく、金を稼ぐために人を騙し、人格も尊厳もないことに気づきました。その後、私は御言葉を読み、神様は誠実な人を好み、誠実な人を祝福し、誠実な人になることが神様の私たちに対する要求だとわかりました。これらのことがわかって、私は神様に祈りました。他の同僚がどうであれ、私はそのやり方に流されません。神様は私の行動を全てご覧になり、サタンも見ています。私は御言葉を実践して証を立てなければなりません。御言葉を実践した時、私は心から平安を感じました。その後、オーナーが、私が他の同僚とは違って、適当に仕事して怠けることはないのをみて、重要な仕事を私に任せて、さらに給料も上げてくれて、私に仕事を任せると安心だと言ってくれました。私はこの経験を通して、御言葉を経験することは単に教会生活の中だけでなく、現実の生活の中においても御言葉を経験するべきだとわかりました。ですから、仕事する中で、私たちは全てのことにおいて真理を求めて御心を実践するなら、神様は必ず私たちを導いてくださいます。
暁東兄弟、これらの交わりがあなたに役に立てることを願っています。
小明