主につき従うのには、四つの最も根本的なことがあります。それはわたしたちすべてのクリスチャンが達成しなければならないことです。この四つのことは、神の言葉を読むこと、神に祈ること、本分を尽くすこと、そして神の言葉を実行することです。わたしたちのすべての霊的な生活には、おもにこの四つの面があります。わたしたちの毎日の生活の中にこの四つの面の実行があれば、わたしたちは本当のクリスチャンとしての条件を持つようになります。
わたしたちは主を信じたその日から、聖書を読んでいます。数十年一日のように聖書を読んでいて、今まで中断したことがありません。では、わたしたちがどのように神の言葉を読めば効果を収めることができるでしょうか。神の一言一言から真理を探り出し、神の意志を求め、注意深く祷読し、かみしめるべきです。おおざっぱに読んだり、聖書の字句を暗誦したりしてはなりません。わたしたちは注意深く読み、探究して、聖霊の啓き、照らしを得る必要があります。それでこそ真理の真意と主の意志を理解することができます。
ヨハネによる福音書第4章23-24節でこう書かれています。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」。だから、わたしたちが祈る過程は、神を礼拝する過程でもあります。ここには、霊と真理をもって神を礼拝するという条件があります。つまり、わたしたちの祈りが主に良しと認められることを望むなら、祈る前に心を落ち着かせて、主に何を言いたいか、毎日わたしたちに臨む環境の中で主の意志が何かを考えてみるべきです。わたしたちが主の意志を理解したら、主の意志にしたがって祈るべきです。ひたすら神がわたしたちに何かを与えるように要求してはならず、また目的なしに繰り言を言ったり、毎日同じ祈りを繰り返したりしてはなりません。祈る時は自分の困難を正確に知り、心をもって神の意志を求め、神に本音を語り、誠実な言葉で言うべきで、大きな口をたたいたり、空論を説いたりしてはならず、また、神の前で空約束をして実行しないようなことをしてはなりません。しかも、何事にも神を求め、神を仰ぎ見るべきであり、どんな時どんな場所でも心の中に神の位置があるようにし、神を崇めるべきであり、何事にも神の啓き、導きを求めて、従順な祈りをするべきです。そのような祈りこそが神を礼拝する祈りです。
マルコによる福音書第10章29-30節でこう書かれています。「イエスは言われた。『はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける』」。主イエスはまたこう言われました。「かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」(マタ7:22-23)。わたしたちすべてのクリスチャンは、自分の尽くすべき本分があります。あるクリスチャンたちは主のために自分をささげることができ、数十年一日のように道を走って福音を宣べ伝えています。あるクリスチャンたちは真心をもって主を信じ、真理を追い求める兄弟姉妹に施しをし、彼らを助けることができます。あるクリスチャンたちは消極的で弱い兄弟姉妹を支えることができます。またあるクリスチャンたちははるばるやってくる、福音を宣べ伝える人を受け入れることができます。実は、これらはみなわたしたちが常に生活の中で行なうことです。しかし、本当に本分を尽くすことは、自分の意図を混ぜずに神のために行なうことであり、祝福を得て主と取り引きして、天の国に入るという祝福、冠を得るためにではなく、多くの人の前で他人に褒められるためにでもなく、主の心を満足させるためだけに行なうことです。そのような気持ちを抱いて行なうなら、本当に本分を尽くすことになり、主に受け入れられることもできます。さもなければ、人が自分の企み、欲望、要求のために本分を尽くし、捨て、費やすことになり、主の言葉を守り、神のみこころを行なうとは言えなくなります。そうであれば、主イエスはわたしたちを罪定めして、「不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」と言われるはずです。
実は、真理を実行するのは主の言葉を実行するのです。主イエスのわたしたちへの教えは非常に多いです。例えば、主イエスはこう言われました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」(マタ22:37-39)。主の言葉を実行するのは神のみこころを行なうのです。そのためには、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主を愛しなければなりません。実行する中でどのように代価を払い、費やしても心から喜んでそうするべきであり、自分の意図、目的や野心、欲望を持ってはなりません。どんな試練、精錬が臨んでも、神に従い、神を愛すべきであり、不平を言い、神に背いてはならず、また神に反発し、反抗し、神を裏切ってはならず、死に至るまで神に忠誠を尽くし、証しのために立つべきです。だから、わたしたちが主の言葉を実行する時、ただ主の言葉の表面上の意味によって行なってはならず、主の言葉の中に含まれる主の意志が何か、そして真理の本質、真理の真意が何かを探究するべきです。そうすれば、わたしたちの実行は本当の真理の実行になれます。主の言葉の表面上の意味によって行なうのは、ただ聖書の字句を守るのです。それは真理の実行だと言えません。
以上は、わたしたちが神を信じるのに守らなければならない四つの根本的な重要なことです。わたしたちが神を信じる上でのこの四つの根本的なことをとらえることができれば、主に良しと認められることができます。わたしたちが神を信じる上でのこの四つの根本的なことを守ることができなければ、神を信じるには方向、目標がなく、長年神を信じても大きな進歩を遂げることができません。だから、わたしたちが根本をつかんでこそ、神を信じることに成功すると保証できます。こうして、わたしたちが失敗することがなくなります。