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どのように神に祈り崇拝するかについての代表的な言葉

真に祈るとは何を意味するであろうか。それはあなたの心の中にある言葉を神に話すことであり、神の意志を把握し、神の言葉に基づいて神と交わることを意味する。またそれは殊更に神を身近に感じ、神が自分の目の前にいて、あなたには何か神に言いたいことがあると感じることである。またそれは、自分の心の中に光が射すのを著しく感じ、神が殊更に愛しいと感じることである。あなたは著しく霊の動きを感じるだろう。するとあなたの兄弟姉妹は、あなたの話を聞いて喜びに満たされるだろう。彼らは、あなたが話す言葉が、彼らの心の内の言葉であり、彼らが言いたいと願っていた言葉だと感じるだろう。あなたが言うことが、彼らが言いたいことを代表していると感じるだろう。真に祈るとは、このことを意味する。真に祈った後、あなたは心の中に安らぎを感じ、喜びに満たされるであろう。神を愛する強さが向上し、あなたは全生涯で、神を愛する事以上に価値があり大切なことは無いと感じるであろう。そして、これら全ては、あなたの祈りが効果的であったことを証明するであろう。

「祈りの実践について」より

祈る時、あなたの心は神の前に静まっていなければならず、また真摯でなければならない。あなたは真に神と交わり、神に対して祈りを捧げなければならない。また、美辞麗句で神を欺こうとしてはならない。祈りは、神が今日完成することを望んでいる物事を中心とする。自分に一層の啓き照らしを与えるよう神に願い、自分の実状や問題を神の前にさし出して祈りなさい。そして神の前で決意を固めなさい。祈りは手順に従うことではなく、真の心で神を求めることである。神があなたの心を守ってくれるように求めなさい。そうして、自分の心をいつも神の前で静めることができるように。また、神があなたのために準備した環境において、自分を知り、忌み嫌い、自分を捨て去ることができるように。よってあなたが神との正常な関係を持つことが出来るようになり、あなたが真に神を愛する者とされるように。

「祈りの実践について」より

神が人々に要求する最低基準は、自分の心を神に開くことができることである。人が神に対して真心を捧げ、心の中にある本音を告げるならば、神はその人の内に働くことをよしとする。神は人の曲がった心ではなく、純粋で正直な心を求めている。人が神に自分の心の真実を話さないならば、神はその人の心を動かすことも、その人の中で働くことも無いであろう。したがって、祈りにおいて極めて重要なことは、自分の本心から来る言葉を話し、自分の欠点や反抗的な性質を神に告げ、ありのままの自分を神に曝け出すことである。そうして初めて、神はあなたの祈りに関心を抱くであろう。そうでなければ、神はあなたから顔を隠すであろう。祈りの最低基準として、あなたは自分の心を神の前で平静に保つことが出来なければならない。また心が神から離れてはならない。おそらくこの期間、あなたは新しい、もしくはより高い観点を得ていないかも知れないが、あなたは祈りを用いて現状を維持しなければならない。後戻りすることは許されない。これこそがあなたが果たさなければならない最小限である。

「祈りの実践について」より

祈りとはひととおりの儀礼を行うことでも、手順に従うことでも、神の言葉を暗唱することでもない。すなわち祈りとは言葉を模倣し、他人を真似ることではない。祈りにおいて、あなたは心を神に捧げなければならない。そして、神に心を触れられるよう、自分の胸中の言葉を神と分かち合わなければならない。あなたの祈りが効果的であるためには、その祈りはあなたが神の言葉を読むことに基づいていなければならない。神の言葉の中で祈ることによってのみ、あなたはもっと多くの啓き照らしを得ることが可能となる。真の祈りは、神による要求を待ち焦がれる心を持ち、それらの要求を自ら進んで果たすことにより示される。あなたは神が憎む物事全てを憎み、それを基礎として、神が説明する真理について知り、明瞭に理解するようになるであろう。決意と信仰、認識、また、祈った後に実践するための道を持つこと。それのみが真の祈りであり、このような祈りだけが効果的であり得るのである。しかし、あなたが神の言葉を享受すること、神の言葉の中で神と交わること。また、あなたの心が神を求めることができ、神の前で静まっていること。それらのことの基盤の上に、祈りは建て上げられねばならない。このような祈りは、既に神との真の交わりを持つ境地に達しているのである。

「祈りの実践について」より

神が人類を創造し、魂を与えた後、もし彼らが神を呼び求めなければ、彼らは神の霊と繋がることができず、したがって天からの「衛星テレビ放送」は地上で受信できないように神が定めた。神がもはや人々の魂の中にいなければ、他のものが入り込める空席が残され、そこにサタンが入り込む機会をつかむ。人々が心から神と繋がれば、サタンはただちにパニックに陥り、大急ぎで逃げ出す。人類の叫びによって神は彼らに必要なものを与えるが、初めから彼らの中に「住む」ことはない。神は彼らの叫び求める声によっていつも援助するだけで、人々はその内面の力から忍耐力を得るので、サタンは思うままに人の心に入って「遊ぶ」ことはしない。このように、人々が常に神の霊と結びついていれば、サタンは混乱を引き起こしに来ようとはしない。サタンが混乱を起こさなければ、人々のすべての生活は正常であり、神はまったく妨害なしに彼らの中で働く機会を得る。こうして、神が行いたいと思うことは人間を通して達成することができる。

「十七番目の言葉の解釈」より

また、祈りの内容についてはどうであろうか。あなたは、自分の実際の状態と聖霊によって為されるべき働きに従って段階的に祈る必要があり、また神の意志と人間に対する要求に則して神と交わるべきである。あなたが祈りの実践を開始する時は、まず最初に自分の心を神に捧げなさい。神の意志を把握しようとしてはならない。ただあなたの心の内にある言葉を神に話そうとしなさい。神の前に来て、こう言いなさい。「おお神よ、私は今日になって初めて、あなたに服従していなかったことを知りました。私は本当に堕落した、忌み嫌われるべき存在です。以前、私は時間を無駄にしていました。私は今日からあなたのために生き、意義のある人生を行動で示し、あなたの意志を満足させます。私があなたの前で響きわたるような力強い証をし、あなたの栄光とあなたの証しと、私たちの内にあるあなたの勝利の証拠をサタンに示すことが出来るよう、私は、あなたの霊がいつも私の内で働き、常に私に光と悟りを与えることを望みます。」あなたがこのように祈る時、あなたの心は完全に解放されるであろう。このように祈ったことで、あなたの心は神にいっそう近付くであろう。そして頻繁にこのように祈ることで、聖霊は必然的にあなたの中で働くであろう。あなたが常にこうして神を呼び求め、神の前で決意を固めるならば、あなたの決意が神の前で受け容れられ、あなたの心と存在全てが神のものとされる日がやがて来るだろう。そして、最終的にあなたは神によって完全にされるであろう。

「祈りの実践について」より

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祈りの実践について

祈りの基礎知識

1.何でも思いついた言葉をやみくもに述べてはならない。あなたは心の内に重荷を持たなければならない。つまり、あなたは、祈る時目標を持たなければならない。

2.あなたの祈りには、神の言葉が含まれていなければならない。すなわち、あなたの祈りは神の言葉に基づいていなければならない。

3.祈る時は、昔のことを蒸し返してはならない。過ぎ去った事柄を挙げてはならない。あなたは聖霊の現実の言葉を話すよう、自分を特に訓練すべきである。そうすることで初めて、神との繋がりを持つことが出来るようになる。

4.集会での祈りでは、今日の聖霊の働きを中心に据えなければならない。

5.全ての者が他人のために祈る方法を習得しなければならない。神の言葉の中に、祈り捧げたい言葉を見出し、それを基礎として重荷を負い、頻繁に祈る必要がある。それは、神の意志に対する配慮の現れのひとつである。

個人の祈りの生活は、祈りの重要性と基礎知識を理解することを基盤としている。人間は、日常生活の中で、自分の欠点のために頻繁に祈る必要があり、また自分のいのちの性質の変化を遂げるために、神の言葉に関する認識を基礎として祈らなければならない。人間はそれぞれ独自の祈りの生活を確立すべきであり、神の言葉に基づいた認識を得るために祈り、神の業に関する認識を求めるために祈るべきである。自分の現況を神の前にさし出し、実際的になる必要があり、方法に気を取られてはならない。要は、真の認識を得ることと、神の言葉を実際に体験することである。

「祈りの実践について」より

あなたは正直でなければならない。また、自分の心の中の狡賢さを取り除くために祈らなければならない。あなたが必要な時にはいつでも自分を清め、神の霊に触れられるために祈りを用いるにつれて、あなたの性質は次第に変化するであろう。真の霊的生活とは祈りの生活であり、それは聖霊に触れられる生活である。聖霊に触れられる過程は、人間の性質を変える過程である。聖霊に触れられることのない生活は霊的生活ではなく、依然として宗教儀式である。聖霊により頻繁に触れられ、啓き照らされる者だけが、霊的生活に入った人々である。人の性質は、その人が祈るにつれて継続して変化し、聖霊に触れられれば触れられるほど、その人は一層積極的かつ従順になる。また、その人の心も次第に清められ、その後その人の性質は次第に変化するであろう。これこそが真の祈りの効果である。

「祈りの実践について」より

祈りは人間が神と協力する方法のひとつであり、人間が神を呼び求める手段であり、人間が神の霊に動かされる過程である。祈りのない者は霊の無い死んだ者であると言える。それは、彼らには神によって心を動かされる能力が欠けている証拠である。祈りが無ければ、彼らは正常な霊的生活を実現できず、まして、聖霊の働きに従うことなどできない。祈りが無ければ、彼らは神との関係を絶ち切り、神の承認を得ることが出来ない。神を信じる者として、あなたが祈れば祈るほど、神によって触れられることも多くなる。このような人々にはより強い決意があり、神から最新の啓きをもっと受けることができる。その結果このような人々だけが、最も早く聖霊によって完全にされ得るのだ。

「祈りの実践について」より

日常生活にて神を感じて祈る際、特に意識することなく、何かをしながら神に祈る。これは心を神に捧げていると言えるのだろうか。あなたがたは家事や肉的な事について考え、心は常にふたごころである。これは神の臨在の中で心を静めていると言えるのだろうか。あなたの心はいつも外的な事に気をとられていて、神と向き合うことができないのである。神の前に真に平安でありたいと願うのであれば、意識して協力しなければならないのである。即ち、あなたがたひとりひとりが周りの人々や物事から離れてひとりになり、ディボーションをする時間を持ち、そうすることで心に平安を得、神の前に静まるのである。自分のディボーション用のノートを作り、神の言葉による認識やあなたがたが霊的にどのように動かされたかを、内容の深い浅いに関係なく記録すべきである。意識して神の前で心を静めなさい。1日に1、2時間を真の霊的生活に捧げる事ができれば、その日あなたの生活は豊かになり心は明るく明晰になる。日々このような霊的生活を送るならば、ますます神に心を捧げる事ができるようになり、あなたの霊はますます強くなり、聖霊の導く道を歩むことがより可能になり、神はますますあなたを祝福するようになる。.....霊的生活を送れば送るほど、心は神の言葉で満たされる。あなたは常に霊的生活を送ることを考えるようになり、その重荷をになうようになる。あなたがそのような状態になると、霊的生活を通して神に自分の心の中にある真実を示すことができ、あなたのやりたいこと、考えていること、神の言葉への理解と求め方を神に伝えることができるようになる。小さなことであっても、隠しておいてはいけない。心の中にある言葉を神に話す練習をし、神に真実を伝え、躊躇せず心の中にあるものを語らなければならない。これを実践すればするほど、あなたは神の素晴らしさを感じるようになり、あなたの心はますます神へと近づけられて行くのである。その状態になると、あなたは神が誰よりも大切だと感じるようになる。何があっても決して神のそばを離れなくなる。このように日々ディボーションの時間を持ち、それをおろそかにすることなく、自分の人生における使命と捉えるならば、神の言葉があなたの心を占領するようになる。これが聖霊に触れられるということなのである。それはあたかも、あなたの心がずっと神のものであったかのようで、あなたの心に常に愛があったかのように感じるものである。それをあなたから取り上げる事のできる者はいない。この状態にまでなると、神は真にあなたの心に住み、あなたの心には神が存在するようになるのである。

「健全な霊的生活は人々を正しい道へ導く」より

神の前で自分の心を静めることは、神の言葉の中に生きるための重要な手順であり、現在全ての人々が緊急に入る必要のある課題である。神の前で自分の心を静める境地に入るには次のことが必要である。

1.外部の物事から自分の心を取り戻し、神の前で静まり、心を集中して神に祈る。

2.神の前で静まった心で、神の言葉を食べ飲みし、享受する。

3.心で神の愛について黙想・沈思すること、神の業について熟考することを日課とする。

まず祈ることから始めなさい。精神を集中して、決められた時間に祈りなさい。時間的にどれほど切迫しているか、どれほど多忙かを問わず、またどんな事があっても、いつものように日々祈り、神の言葉をいつものように食し、飲みなさい。神の言葉を食し、飲んでいる限り、自分の周りの状況がどうであれ、自分の霊は喜びに満たされる。また、他人や様々な出来事や自分の周りのものに悩まされることもない。常時神のことを心の中で黙想していれば、それ以外の出来事に煩わされることは無い。背丈があるとは、このことを意味する。まず祈りから始めなさい。神の前に静まり祈ることは、最も効果的である。その後、神の言葉を食し、飲み、神の言葉を思い巡らし、光を得て、実践の道を見出し、神の発した言葉の目的を知り、偏ること無く理解するよう努めなさい。普段から、外側のことに心を乱されることなく、心の中で神に近付き、神の愛について黙想し、神の言葉を熟考しなさい。あなたが熟考できるぐらい心がある程度安らいでおり、あなたのいる状況に関わらず、自分の心の中で神の愛について沈思し、本当に神に近付き、最終的に自分の心の中で神を讃美する程度に達したなら、それは祈りにも勝ることである。そして、その時初めてあなたはそこから或る程度の器量を得ることになる。もしあなたが、前述したような状態に達することができるなら、それはあなたの心が神の前で真に静まっている証拠である。それが第一段階であり、基本訓練である。人間は、神の前で安らかになることが出来て初めて、聖霊により触れられ、啓き照らされることが可能となる。その時初めて真に神と交わることや、神の意志と聖霊の導きを把握することが可能となる。そして、その時、人間は自分の霊的生活において正しい道を歩きだしたことになるのである。自分自身に反抗し、自分自身を忌み嫌い、神の言葉の中で生きることができる深みに達するために、神の前で生きるよう自分を訓練することが、真に神の前で自分の心を静めることである。

「神の前で心を静めることについて」より

あなたの心が、神の前で本当に静まっているのであれば、周囲で何があっても、それに煩わされず、どんな人や出来事、またいかなるものにも心を奪われることがないであろう。あなたがこのような境地に入るなら、それらの否定的な状態や、人間の観念、人生哲学、異常な人間関係、心の中の雑念などといった全ての否定的なものは自然と無くなるであろう。あなたは常に神の言葉について熟考し、あなたの心はいつも神に近付き、神の現在の言葉で満たされているので、そうした否定的なものは無意識のうちに取り去られる。肯定的な新しい物事があなたの心を占める時、否定的な古い物事が入る余地はなくなる。だからそうした否定的な物事に注目してはならない。そうした物事をコントロ-ルしようとして努力する必要は無い。神の前に静まることに注意を払い、神の言葉を食べ飲みして享受しなさい。もっと多くの聖歌を歌って神を讃美し、神があなたに働きかけられるよう機会を与えなさい。なぜなら、神は今自ら人間を完全にすること、また、あなたの心を獲得することを求めているからである。神の霊はあなたの心を動かす。そしてあなたが聖霊の導きに従って神の前に生きるならば、あなたは神を満足させるであろう。

「神の前で心を静めることについて」より

聖霊に触れられることをどのように求めるのか。重要なことは神の現在の言葉に生き、神の要求することを基礎として祈ることである。このように祈ったなら、聖霊は確実にあなたに触れる。神が語る現在の言葉の基礎に立って求めないなら、これは無益である。あなたはこう祈り、言うべきである。「神よ。私はあなたに反対し、あなたに多くを負っています。私は大変不従順であり、決してあなたを満たせません。神よ。あなたが私を救ってくださることを願います。最後まであなたに奉仕することを願い、あなたのために死ぬことを望みます。あなたは私を裁き、罰し、私に不満はありません。私はあなたに反対し、死に値します。人々がみな私の死にあなたの義なる性質を見ることができるでしょう」このように心から祈るとき、神はあなたの言葉を聞き、導くだろう。聖霊の現在の言葉を基礎にして祈らないなら、聖霊があなたに触れる可能性はない。神の心に従って祈り、そして神が今日行おうと望むことに従って祈るなら、あなたはこう言う。「神よ。私はあなたの委託を受け入れることを願い、あなたの委託に忠実でありたいと願います。そして、私はあなたの栄光に一生を捧げる覚悟であり、そうすることで、私が為すすべては神の民の基準に達することができます。あなたが私の心に触れますように。あなたの霊が常に私を照らし、私が為すすべてがサタンに恥をもたらすように、そうして最後にあなたが私を得ることを望みます」神の心に集中し、このように祈れば、聖霊は必ずあなたの内で働くであろう。祈りの言葉がどれくらいあるかは問題ではない。重要なのは、あなたが神の心を理解するか否かである。

「神の最新の働きを知り、神の歩みに従う」より

いのちを求める者は、まず自分の心を全て神に捧げる必要がある。これは前提条件である。私は、私の兄弟姉妹が、私と共に「神よ、私の心が全てあなたに向かい、私の霊があなたに感激し、私が自分の心と霊であなたの愛しさを理解し、地にある者があなたの麗しさを知る祝福を受けることができるよう、天にあられるあなたの御霊が、地にある私達に恵みを授けますように。神よ、私達の愛が長く続いて変わることが無いよう、あなたの御心が再び私達の霊を感激させますように。」と神に祈ることを望む。私達全員において神が行われる御業は、最初に私達の心を試されること、そして私達が自らの心を神に注ぐ時、神は私達の霊を感激させ始められる。ある者が神の愛しさ、至高の存在、偉大さを理解できるのは、霊の中のみである。これが人間の中における聖霊の道である。あなたがたには、こうしたいのちが有るであろうか。あなたがたは、聖霊のいのちを経験したであろうか。あなたがたの霊は神に感激したであろうか。聖霊が人間の中で御業を行われる方法を理解しているであろうか。あなたがたは主に自らの心を全て捧げているであろうか。あなたがたが自らの心を全て神に捧げると、聖霊のいのちを直接経験し、あなたがたに対して神の御業が明示され続けることが可能である。この時、あなたがたは、聖霊により用いられる者となることが出来る。あなたがたは、そのような者となることを望むであろうか。私の記憶では、私が聖霊により感激させられて自分の心を初めて神に捧げた時、私は神の御前で崩れて「神よ、私があなたの救いを認められるように、私の目を開かれたのはあなたです。私は自らの心を全てあなたに捧げることを望み、あなたの御旨が行われることのみが私の願いです。自らの心があなたの立ち会いの下で承認され、私があなたの御旨を行うことが、私の唯一の望みです。」と叫んだ。この祈りは私にとって最も忘れ難いものである。私は深く感激し、神の御前で号泣した。それは、救われた者として、私が神の御前で最初に成功させた祈りであり、また私の最初の念願であった。その後、私は聖霊により頻繁に感激させられた。あなたがたには、こうした経験が有るであろうか。

「道(3)」より

あなたが神の言葉を享受しているときに、あなたの霊が触れられ、神を愛さないわけにはいかないと感じる時がある。あなたの内に大きな力があり、犠牲にできないものは何もないと感じる。このように感じるならば、あなたは神の霊に触れられたのであり、あなたの心は完全に神に向き合い、あなたは神に祈り、このように言うだろう。「神よ。私たちは本当にあなたにより前もって定められ、選ばれました。あなたの栄光は私に誇りを与え、神の民の一人であることを光栄に感じます。私はあらゆるものを費やし、あらゆるものを捧げて、あなたの心を実行し、私の持てるすべての年月と一生の努力をあなたに献上します」このように祈るとき、あなたの心に神への終わりのない愛と真の服従がある。このような経験をしたことがあるだろうか。神の霊にしばしば触れられると、人々は祈りの中で特に自発的に自らを神に捧げる。「神よ、私はあなたの栄光の日を見たいと願い、あなたのために生きたいと願います。あなたのために生きるより価値や意味のあるものはなく、サタンや肉のために生きたいという望みは少しもありません。今日あなたのために私が生きられるようにしてくださることで、あなたはわたしを引き上げてくださいます」このように祈ったならば、神にあなたの心を捧げずにはいられず、神を得なければならず、生きている間に神を得ずに死ぬのは耐えられないと感じるだろう。そのように祈った後では、あなたの内に無尽蔵な力があり、あなたはその力がどこから来るのか分からない。あなたの内に無限の力があり、神はとても美しく、愛する価値があると強く感じる。神に触れられた時はこのようになる。このような経験をした人々はみな神に触れられたのである。神にしばしば触れられる人々には、いのちに変化が起こる。決断を下すことができ、完全に神を得ようとする。心の中の神への愛はさらに強くなり、心は完全に神に向かい、家族、世間、複雑な人間関係や自分の未来への心残りはなく、一生の努力を神に捧げようとする。神の霊に触れられた人々はみな真理を求める人々であり、神により完全にされる見込みのある人々である。

「神の最新の働きを知り、神の歩みに従う」より

神の霊と他のさまざまな霊との間には距離があるため、神を信じるすべての人々には神を心から望む気持ちがあり、彼らは皆進んで神に近づいていき、心の内を注ぎ出そうとするが、あえて神と接触しようとはせず、畏敬の念を抱いてとどまっているだけである。これが神の霊の引きつける力である。神は人々が愛する神であり、神には彼らが愛する無限の要素があるので、すべての人々は神を愛し、神を信用したいと願う。実際、誰もが神を愛する心を持っているのだ。物分かりが悪く何も感じない不憫な人々が神を理解することができないのはサタンが混乱させるからである。そのため、神は神に対する人類の真の感情を次のように語った。「人間は、けっしてその心の奥底でわたしを嫌ったことがない。かえって、霊の奥底では、わたしにしっかりと結びついているのだ。……わたしの実際は人間を呆然とさせ、驚かせ、戸惑わせるが、それでも人間はすべてを進んで受け入れる。」これが神を信じている人々の心の奥底にある現状である。人々が真に神を知れば、自然に神に対する態度が変化し、霊の役割のために心の奥底から称賛の言葉を発することができるだろう。

「十五番目の言葉の解釈」より

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どのように祈れば主の返事を得られるのか、あなたは知っていますか

ペテロは祈って言った。「神よ、あなたが私を親切に扱われる時、私は喜び、安らぎを感じます。あなたが私に刑罰を与えられる時、私はそれにも増して喜びと安らぎを感じます。私は弱く、無数の苦難を受け、多くの涙と悲しみがありますが、この悲しみは、私の不従順さと弱さが原因であることを、あなたは知っておられます。私が泣くのは、自分があなたの望みを満たせないからであり、私が悲しみと後悔を感じるのは、自分があなたの条件に満たないからですが、私は進んでその領域に到達しようとし、あなたにご満足いただくために出来ること全て喜んで行います。あなたの刑罰により、私に守りがもたらされ、私に最高の救いが授けられました。あなたの裁きにより、あなたの寛容さが覆い隠されます。あなたの刑罰と裁きが無ければ、私はあなたの憐れみと慈愛を授かることは出来ないでしょう。現在、私はあなたの愛が天やあらゆる物事を超越することを、格段に明瞭に理解しています。あなたの愛は憐れみと慈愛だけではなく、それ以上に、刑罰と裁きです。あなたの刑罰と裁きにより、私は多くの物事を与えられました。あなたの刑罰と裁き無くして、清められる者も、創造主の愛を経験出来る者もひとりとして居ないでしょう。私は数百回の試練と苦難を受け、死に瀕した事さえありましたが、そうした苦難により、私はあなたを真に知り、最高の救いを得ることが出来ました。あなたの刑罰と裁き、そして鍛錬が私から無くなるとしたら、私は闇のサタンの領域で暮らすことになるでしょう。人間の肉には、どのような利益があるでしょうか。あなたの刑罰と裁きが私から無くなるとしたら、それはあなたの御霊が私を見捨て、あなたが私と共に居ないようなものでしょう。そうであるとしたら、どうすれば私は生き続けることが出来ましょうか。あなたが私に病を与えられ、私の自由を奪われても、私は行き続けることが出来ますが、あなたの刑罰や裁きが無くなったならば、私は決して行き続けることが出来ないでしょう。私にあなたの刑罰と裁きが無かったとしたら、私には言葉に出来ないほど深いあなたの愛を、私は失うでしょう。あなたの愛無くして、私はサタンの領域下で生活し、あなたの栄光の御顔を見ることは出来ないでしょう。あなたは、私がどうして生き続けられると言うのでしょうか。そのような闇や生活は、私には耐えられないでしょう。私があなたと共にあることは、あなたに会うことのようですので、どうして私があなたから去ることが出来ましょうか。私はあなたに対し、たとえそれが短い宥めの御言葉であったとしても、私の最大の安らぎを奪わないよう懇願し、希います。私は従前あなたの愛を授かり、今はあなたから離れることが出来ません。あなたは、どうして私があなたを愛せないというのでしょうか。私は、あなたの愛のために、何度も悲しい涙を流しましたが、そうした生活は一層有意義であり、一層私を豊かにし、一層私を変化させ、被造物が持つべき真理を私が一層得られるようにすることが出来ると、常に感じて来ました。」

「ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識」より

それはまさにペテロが経験したのと同様である。つまり、ペテロは、自分が最も衰えていた時、神に祈って「神よ、時間や場所を問わず、私が常にあなたのことを覚えていることを、あなたは知っておられます。時間や場所を問わず、私があなたを愛したいことを、あなたは知っておられます。しかし、私の背丈は小さすぎて、私は弱く無力すぎるため、私の愛は過少であり、私のあなたに対する誠実さは乏し過ぎます。あなたの愛に比べると、明らかに私は生きることに不適です。私が望むのは、自分の人生が無駄にならないこと、あなたの愛に報いるだけでなく、自分にあるもの全てをあなたに捧げられることのみです。私があなたを満足させることができるならば、私は創造物として安堵して、それ以上何も求めないでしょう。今の私は弱く無力ですが、あなたの訓戒と愛を忘れることはないでしょう。今、私はただ、あなたの愛に報いること以外に何もしていません。神よ、私は惨めに感じます。どうすれば、私の心にある、あなたへの愛をあなたに報い、自分の出来る全てを行い、あなたの望みを満たし、自分にある全てをあなたに捧げることが出来るでしょうか。あなたは人間の弱さを知っておられます。どうすれば、私はあなたの愛を受けるに相応しい者となれるでしょうか。神よ、あなたは、私の背丈が小さいこと、私の愛が乏し過ぎる事をご存じです。こうした環境において、どうすれば私は最善を尽くせるでしょうか。私は、自分があなたの愛に報いるべきであること、自分の持てる全てをあなたに捧げるべきことは知っていますが、現在の私の背丈は小さすぎます。私があなたに捧げる清い愛を一層多く備え、自分の持てる全てをあなたに一層捧げられるように、あなたが私に強さと自信を与えられるよう願います。そうすれば、私はあなたの愛に報いることが出来るだけでなく、あなたの刑罰、裁き、試練、そして一層厳しい呪いを一層多く経験することが出来るでしょう。あなたは、私があなたの愛を見ることを許されたので、私はあなたを愛さずには居られません。また現在、私は弱く無力ですが、どうしてあなたのことを忘れることが出来ましょうか。あなたの愛、刑罰、そして裁きは全て、あなたのことを私に知らしめましたが、それでもなお私はあなたの愛に応えることが出来ないと感じます。なぜなら、あなたは極めて偉大であられるからです。私は、どうすれば自分の持てる全てを創造主に捧げられるでしょうか。」と述べた。それがペテロの誓願であったが、それでもペテロの背丈は不十分すぎた。この時、ペテロは、あたかも自分の心がナイフでえぐられているかのような悲痛を感じた。そうした状況では、ペテロはどうすればよいか知らなかった。しかし、ペテロは祈り続けて言った。「神よ、人間は背丈が幼稚な者であり、人間の良心は無力であり、私が実現出来るのは、あなたの愛に報いることだけです。現在、どのようにしてあなたの心を満たし、自分の出来ること全てを行い、自分の持てる全てをあなたに捧げればよいかを、私は知りません。あなたの裁きや刑罰、あなたが私に与えられる物事、私から奪われる物事を問わず、あなたに対する不平が私に一切ありませんように。あなたが私を罰し、裁かれた時、私は愚痴をこぼし、清さを実現することも、あなたの望みを満たすことも出来ないことが、何度もありました。あなたの愛に対する私の報いは、強制されて発生したものであり、その時、私は自分を一層嫌いました。」ペテロがこのように祈ったのは、ペテロが神に対する一層清い愛を求めていたからである。ペテロは求め、懇願し、更には自らを非難し、自らの罪を神に告白した。ペテロは神に対して負債があると感じ、自己嫌悪を覚えつつ、幾分悲しみも感じ、消極的であった。ペテロは常にこのように神の心に対して自分が不十分であり、最善を尽くせないと感じた。そうした状況において、ペテロはまだ、ヨブの信仰を追求していた。ペテロはヨブの信仰がどれほど強大であったかを知っていた。なぜなら、ヨブは自分の物は全て神から授けられたものであり、神がその全てを自分から奪うのは自然なことであること、そして神は、神が望む者に対して与えること、そしてそれが神の義なる性質であることを理解していたからである。ヨブは苦情を述べず、依然として神を讃美することができた。ペテロもまた自分を知り、心の中でこう祈った。「現在、私は、自分の良心であなたの愛に報い、私があなたにお返しできるだけの愛で報いることに満足するべきではありません。なぜなら、私の考えは腐敗しすぎており、あなたを創造主として捉えることが出来ないからです。私は依然としてあなたを愛するに不適であるため、私は自分にある全てを、自ら望んであなたに捧げる能力を実現する必要があります。私は、あなたが私から大いなる栄光を得られるよう、あなたが行った業の全てを知り、選択肢を持たず、またあなたの愛を見て、あなたを讃美し、あなたの聖なる御名を讃えることが出来る必要があります。私はあなたのために、喜んでこの証しに堅く立ちます。神よ、あなたの愛は極めて貴く、美しいものです。どうして邪悪な者の手の中で生きることを望むことが出来ましょうか。私はあなたに造られたのではありませんか。どうして私がサタンの領域下で生きられましょうか。私は、自分が完全にあなたの刑罰の中で生きるほうがよいと思います。私は邪悪な者の領域下で生きることを望みません。私が清くされて、自らの全てをあなたに捧げることが可能であるならば、私は自分の身体と心を、全てあなたの裁きと刑罰に捧げる事を望みます。なぜなら、私はサタンを嫌悪し、サタンの領域下で生きることを望まないからです。あなたの私に対する裁きによって、あなたはご自身の義なるご性質を示されます。私は幸せであり、不満は一切ありません。私が被造物としての本分を尽くせるのであれば、私の人生全体があなたの裁きを伴うことを喜んで受け入れます。その裁きにより私はあなたの義なるご性質を知り、サタンの影響から脱することが出来るでしょう。」ペテロは常にそのように祈り、そのように求め、一層高い領域へと達した。ペテロは神の愛に報いることが出来ただけでなく、それ以上に重要な事として、それと同時にペテロは自分の本分も満たした。ペテロは自分の良心の呵責に苛まれなかっただけでなく、良心の基準を超越することが出来た。神の前へと辿り着くまでペテロの祈りは続き、ペテロの意欲と神に対する愛は最高潮に達した。ペテロは悲痛を受けつつも、神を愛することを忘れず、神の心を理解する能力を求め続けた。ペテロの祈りでは次のような言葉が述べられている。「私は、あなたの愛に報いること以外に何も実現していません。私はサタンの前であなたの証しに立っておらず、自らをサタンの影響下から解放しておらず、依然として肉の中で生きています。私は自らの愛でサタンを打ち破り、辱め、よってあなたの心を満たすことを望みます。私は自らの全てをあなたに捧げ、そのうちほんの僅かでもサタンに捧げないことを望みます。なぜなら、サタンはあなたの敵だからです。」ペテロがこうした方向性を追求すればするほど、ペテロは一層感激し、そうした物事に関する認識が一層高まっていった。ペテロは、自分をサタンの影響下から解放し、完全に神に戻すべきであることを、無意識のうちに知った。それがペテロが到達した領域であった。

「ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識」より

ペテロが神により罰せられた時、ペテロは祈って言った。「神よ、私の肉は従順ではなく、あなたは私を罰し、裁かれます。私はあなたの刑罰と裁きを喜び、あなたが私を求められなくとも、あなたの裁きの中に、あなたの聖く義なるご性質を見ます。あなたが私を裁かれる時、あなたの裁きにおいて他の者があなたの義なるご性質を見ることができるならば、私は満足です。その裁きにより、あなたのご性質が示され、あらゆる生き物があなたの義なるご性質を見ることが出来るようになり、あなたに対する私の愛が一層けがれなくなり、義なる者の像を得ることができるのであれば、あなたの裁きは良いものです。なぜならそれがあなたの慈悲深い心だからです。自分には未だに反抗的な部分が多く、あなたの御前に来るには不適であることは分かっています。敵対的環境や大いなる苦難により、あなたが私を一層裁かれることを望みます。あなたが私をどのように裁かれても、私にとってそれは貴いものです。あなたの愛は極めて大きく、私は一切不平を言わずに自らをあなたの憐れみに委ねることを望みます。」それは、神の業を経験した後におけるペテロの認識であり、神に対するペテロの愛の証しでもある。

「ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識」より

今のように、当時は面と向かって会話はしなかったのだ。恵みの時代では、聖霊の働きは全く隠されており、ペテロは大きな困難で苦しみ、時には次のように叫ぶことさえあっただろう。「神様!私にはこのいのちしかありません。あなたにとってはあまり価値がないでしょうが、私はこのいのちをあなたに捧げたいのです。人間にはあなたを愛する価値はなく、人間の愛も心も価値がありませんが、あなたは人の心のもくろみを見ることができると私は信じています。たとえ人の肉体はあなたに受け入れられなくても、あなたに私の心を受けて欲しいのです。」このような祈りをして、ペテロが「私は神様に私の心を完全に捧げます。たとえ私は神様のために何もできなくても、私は忠実に神様の意を満たし、神様に自分自身を心から捧げます。私は神様が私の心を見てくださるに違いないと信じています。」と祈ったとき、特に励ましを受けた。ペテロは「私は人生に何も求めませんが、神様への私の愛の思いと私の心の願いが受け入れられるよう願っています。私は長い間、主イエスと共にいましたが、イエス様を愛したことはありませんでした。これこそ私の最も大きな負債です。私がたとえイエス様といても、私はイエス様を知りませんでしたし、イエス様の陰で不遜な言葉さえ語っていました。これらの事を考えると、私は主イエスにもっと恩義を感じます。」と言った。ペテロはいつもこのように祈った。彼は「私はちりよりも小さいものです。私は神様にこの忠実なる心を捧げる他には何もできません。」と言った。

…自分の昔の働きや現在の背丈を思い出して、彼は神の願いを満たしていなかったことや、神の基準に達していなかったことなど常に後悔と負債を感じて、しばしば祈りの中でイエスのもとへ行った。これらのことは彼の大きな重荷となった。ペテロは「いつか、私は私が持っているもの全てと私の全てをあなたに捧げます。私はあなたに価値あるものなんでも捧げます。」と言った。ペテロは「神様、私には一つの信仰と一つの愛しかありません。私の命には何の価値もありませんし、私の体にも何の価値もありません。私には一つの信仰と一つの愛しかないのです。私の気持ちの中ではあなたに信仰を持っており、心の中ではあなたに愛を持っています。この2つしかあなたに捧げる物はありません。他に何もありません。」と言った。イエスが十字架につけられる前に、ペテロに「わたしはこの世の者ではない。あなたもこの世のものではない。」と言ったので、ペテロはイエスの言葉で大いに励まされた。後に、ペテロが激しい痛みに見舞われたとき、イエスは「ペテロよ、あなたは忘れてしまったのか。わたしはこの世のものではない。わたしが早く離れたのはわたしの働きのためだけである。あなたもこの世のものではない。忘れてしまったのか。あなたに2度言ったが、覚えていないのか。」とイエスは彼に思い出させた。ペテロはイエスの言葉を聞いて「私は忘れていません!」と言った。それからイエスは言った「あなたは天で一度わたしと幸せな時を過ごし、わたしのそばでしばらく過ごしていた。あなたはわたしがいなくて寂しく思っているが、わたしもあなたがいなくて寂しく思っている。わたしの目には被造物は述べる価値はないけれども、汚れのない愛おしい者を何故愛さずにはいられようか。あなたはわたしの約束を忘れてしまったのだろうか。あなたは地上でわたしが与えた任務を受け入れなければならない。わたしが託した仕事を果たさなければならない。いつかあなたをわたしのそばに確かに導くであろう。」これを聞いて、ペテロは増々励まされ、さらに大きな激励をもらった。それは彼が十字架につけられたとき、「神様!私はあなたをいくら愛しても十分ではありません。たとえあなたが私に死ねと言われても、やはり私は十分愛したとは言えません。あなたが私の魂をどこに送られても、あなたが約束を果たされても果たされなくても、あなたがその後何をなされても、私はあなたを愛し、信じます。」ということができた。彼がしっかり持っていたのは信仰と真の愛だった。

「ペテロはどのようにイエスを知るようになったか」より

まことに、わたしは何度もペテロを試した。もちろん彼は死にかけたのだが、そうした何百もの試練の中にあっても、彼は一度たりとわたしへの信仰を失ったり、わたしに失望したりしなかった。わたしがもう彼を捨て去ったと告げた時でさえ、ペテロの心が弱ってしまったり、絶望してしまったりすることなく、それまでと同じように、わたしへの愛を実現するため、自分の信じることを続けた。わたしは彼にこう告げたのだ。おまえをほめはしない。かえって、最後には、サタンの手中に投げ込む、と。そうした試練、肉の試練ではなく、言葉による試練の中にあって、ペテロはそれでもわたしに祈った──おお、神よ。天と地ともろもろのものの中にあって、人間や生き物、あるいはその他のもので、全能者の手の中にないものが何かあるでしょうか。あなたが憐れみを示されるとき、その憐れみのために私の心は大いに喜びます。あなたが私に裁きを下されるとき、私はそれに相応しい者ではありませんが、その御業に神の計り知れない奥義をますます深く感じるのです。なぜなら、神は権威と知恵とに満ちておられるからです。私の肉は苦しみを受けても、霊においては慰められます。どうして神の知恵と御業とをたたえずにおられましょう。たとえ神を知って後に死ぬとしても、常に備えと心構えができています。おお、全能者よ。まことに、神がお姿をお示しにならないのは、そう望んでおられないためではないでしょう。まことに、私に神の裁きを受ける資格に欠けているからではないでしょう。私の中に、ご覧になりたくないものがあるということなのでしょうか。こうした試練の中にあって、ペテロはわたしの意図を正しく把握することはできなかったが、わたしに用いられることを(たとえそれが、人類にわたしの威厳と怒りとを示すため、裁きを受けるだけだったとしても)誇りと栄光であると考え、試練にさらされても、心砕けることがなかった。わたしの前で忠実であったため、また、わたしの与えた恵みのゆえに、ペテロは数千年もの間、人類のための手本、見習うべき者となったのだ。これこそは、あなたがたが見習うべき例ではないのか。

「六番目の言葉」より

あらゆる人のために神が行うすべてはよいことである――だから現時点で賛美しようではないか。物事がある時点に達したら、あるいはその日が来たら、あなたはペテロのように幾多の試練に囲まれながら心の奥底から祈りを発することができるだろうか。ペテロのように、あなたがサタンの手の中にいる時でも神を称えることができる場合に限り、「サタンの束縛から解放され、肉体を克服し、サタンを克服すること」の本当の意味があるだろう。これは神に対するより現実的な証しではないだろうか。

「三十二番目の言葉の解釈」より

神の御旨を真に行う者は、神の裁き、罰、試練の最中に心の奥深くから賞讃を放ち、完全に神に従い、自我を捨て去り、よって誠実な心で一心に、そして純粋に神を愛することが出来る。そうした者が完全にされた者であり、またそれは神が実行し、達成することを望まれる御業でもある。

「神の御業の手順において」より

長い年月の後、人間は練られ、鍛錬と刑罰の試練を経験してきた。人間は過去の「栄光」も「ロマン」も失ったが、無意識の中に人間であることの真理を理解し、人間を救うために神が長年懸命に働いて来たことがわかるようになってきた。人間はゆっくりと、自分の野蛮さを厭うようになる。自分の野蛮さ、神への誤解のすべて、不当な要求の数々を憎むようになる。時間は戻らない。過去の出来事は人間の嘆かわしい記憶となり、神の言葉と愛とが人間の新たな生活の原動力となる。人間の傷は日々に癒え、体力が回復し、立ち上がって全能者の顔を見る…と、神はずっと傍らにいたこと、そしてその笑顔と美しさが依然として心揺さぶるものであることに気づく。神の心はまだ人間を気遣い、その手は始まりの時同様、まだ暖かく、力強い。まるで、人間がエデンの園に戻ったようだが、今回は、人間はもはや蛇の誘惑に耳を傾けない。もはやヤーウェの顔から顔を背けない。人間は神の前にひざまずき、神の笑顔を見上げ、心から最高の捧げ物をする─ああ!わが主、わが神!

「神の経営の中でだけ人は救われる」より

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