物質世界では、ある種の物事や現象を理解できなければ、人はそのたびに関連する情報を探したり、様々な方法を使ってそれらの原因や背景を調べたりすることができます。しかし、本日話をするそれ以外の世界、すなわち物質世界の外に存在する霊界について言えば、人間にはそれについて何かを知る手段も方法も絶対にありません。わたしがこう述べるのはなぜですか。わたしがそのように言うのは、人間世界では物質世界のあらゆる物事が人間の物理的存在と切り離せないから、人々は物質世界のあらゆる物事が自分の物理的ないのちと不可分だと感じているから、そして大半の人間は眼前にあって見ることができる物体しか意識していない、あるいは見ていないからです。しかし霊界、すなわちその他の世界のあらゆるものに関しては、大部分の人々が信じないと言っていいでしょう。人にはそれが見えず、それを理解したり知ったりする必要がないと信じ、ましてや霊界が物質世界とまったく違うことについては何ひとつ述べる必要がないと信じているので、そして霊界は神の目から見れば開かれているが、人間に対しては秘密で閉ざされていると信じているので、その世界の様々な側面を理解するにあたり、その方法を見つけるのはとても困難です。これからお話しする霊界の様々な側面は、神の管理と統治だけに関係するものです。わたしは謎を解明するつもりも、あなたがたが知りたい秘密を教えるつもりもありません。それは神による統治、支配、施しだけに関係するものだからであり、したがってあなたがたが知る必要のある部分だけを話すことにします。
まず、あなたがたに質問します。あなたがたの心の中で、霊界とは何ですか。一般的に言うと、霊界とは物質世界の外側の世界であり、人間にとって見ることも触れることもできない世界です。しかし、あなたがたの想像の中で、霊界とはどのような世界でしょうか。霊界は見ることができないので、おそらくそれについて考えることはできないでしょう。しかし、何らかの伝説を聞くと、霊界について依然考え、それを止めることはできません。わたしがこう述べるのはなぜですか。多くの人が幼いころに経験することがあります。誰かが幽霊や亡霊にまつわる怪談をすると、それを死ぬほど怖がるというものです。怖がるのはいったいなぜですか。それは、そうしたことを想像するからです。幽霊や亡霊を見ることはできなくても、自分の部屋、隠れた場所、暗い隅っこなどの至る所にそれらが存在するように感じるので、恐怖のあまり寝ようともしないのです。特に夜中は、恐ろしくて一人で部屋にいたり、庭に出たりすることもできません。それがあなたがたの想像する霊界であり、人間が恐ろしいと考える世界です。事実を言うと、誰もがそれをある程度まで想像し、わずかに感じることができるのです。
それでは、霊界について話を始めましょう。それは何ですか。簡潔に説明すると、霊界とは、物質世界と異なる重要な場所です。それが重要だと言う理由は何ですか。それをこれから詳しく話し合います。霊界の存在は、人類の物質世界と切り離すことができないつながりをもっています。それは神による万物の統治のうち、人間の生死の周期において重要な役割を担っていますが、そのことが、霊界の存在が重要である理由のひとつなのです。霊界は五感で認知することができない領域なので、それが存在するかどうかを正確に判断できる人はいません。その様々な運動状態は人間の生存と密接に関連し、そのため人類の生活の秩序もまた霊界から大きな影響を受けます。これは神による統治に関連していますか。そう、関連しています。こう述べると、わたしがこの事項について話をする理由がわかるでしょう。霊界は神による統治と管理に関連している、というのがその理由です。人間が見ることのできないこのような世界において、天の命令や法令、行政組織はどれも、物質世界におけるどの国家の法令や組織よりもはるかに優れており、この世に生きるもののうち、それらに背いたり、反したりしようとする人は一切いないでしょう。これは神による統治と管理に関連していますか。霊界には、明確な行政命令、明確な天の命令、そして明確な法令があります。様々な段階、様々な領域において、担当官は厳密にその任務と規則を遵守します。なぜなら、天の命令に背いたときの報いが何かを知り、神がどのように悪を罰して善に報いるか、神がどのように万物を管理、支配するかを明確に認識しているからです。さらに、神がどのようにして天の命令と法令を実施するかをはっきり理解しています。これらのことは、人類が住む物質世界と異なりますか。そう、大いに異なります。霊界は物質世界とまったく異なる世界なのです。天の命令と法令があるため、それは神による統治と管理、そして神の性質、および神が所有するものと神そのものに関連しています。この話を聞いて、わたしがこの事項について話す必要性が大いにあると感じませんか。それにまつわる秘密を知りたいとは思いませんか。(思います。)いま述べたのが霊界の概念です。霊界は物質世界と共存し、同時に神による管理と統治の対象となっていますが、神による霊界の管理と統治は、物質世界におけるそれよりはるかに厳格なものです。詳細については、まず霊界が人類の生死の周期の働きにどう関与しているかという問題から始めなければなりません。と言うのも、それが、霊界に存在するものが担う働きの主要な部分だからです。
ここですべての人間を三つの種類に分類します。最初の種類は未信者で、宗教的な信仰をもたない人のことです。このような人を未信者と呼びます。未信者の圧倒的大部分は金銭だけを信じ、自分自身の利益だけを追求し、物質主義者であり、物質世界だけを信じています。生死の周期、あるいは神性や幽霊に関する話は何も信じません。これらの人たちを未信者と分類し、それを第一の種類とします。第二の種類は未信者以外の様々な信者の人たちです。人類のうち、こうした信者は数種類に大別されます。一番目はユダヤ教、二番目はカトリック、三番目はキリスト教、四番目はイスラム教、そして五番目は仏教というように、五つの種類があります。様々な信者がいるのです。第三の種類には神を信仰する人々が含まれ、あなたがたもここに入ります。この種の信者は現在神に付き従っている人々で、神の選民と効力者の二種類に分かれます。これらのおもな種類は明確に区別されています。これで、人間の種類と階層を心の中で明確に区別できるようになりました。違いますか。第一の種類は未信者から成っており、それがどのような人かはすでに述べました。天の父を信じる人は未信者に数えられますか。多くの未信者は天の父を信じるだけで、風雨や雷などはすべてこの存在によって支配されていると信じ、穀物の植え付けや収穫の際に頼るものの、神への信仰の話になると神を信じるのを嫌がります。これを信仰と呼べるでしょうか。こうした人々は未信者に含まれます。わかりましたね。これらの種類を誤解してはいけません。第二の種類は信者の人々で、第三の種類は神に現在付き従っている人々です。では、わたしがすべての人間をこれらの種類に分けたのはなぜですか。(様々な種類の人たちには、それぞれ異なる結末と終着点があるからです。)それは側面のひとつです。これら異なる人種や種類の人々が霊界へと戻るとき、彼らはそれぞれ異なる場所へと向かい、生死の周期に関する様々な法則の対象になります。ゆえに、わたしが人間をこれら三つの主要な種類に分けたのは、それが理由です。
まずは未信者の生死の周期から話を始めましょう。人は死ぬと、霊界の担当官に連れ去られます。では、その人のいったい何が連れ去られますか。連れ去られるのは肉体ではなく魂です。魂が連れ去られた人は、死後間もない人の魂を専門に受け付ける霊界の部局に辿り着きます。(これは死者が死後最初に行く場所であり、その魂にとって未知の場所です)。魂がこの場所に連れて来られると、係員が最初の検査を行い、名前、住所、年齢、そしてすべての経歴を確認します。その人が生前行った物事は残らず帳簿に記録され、それが正確であることが確認されます。それらの確認が完了すると、その人の生前の振る舞いや行動により、懲罰を受けるか、人間として再び肉体を与えられるかが判断されます。これが第一段階です。この第一段階は恐ろしいですか。それほど恐ろしいものではありません。なぜなら、その人が暗く馴染みのない場所に到着するだけだからです。
第二段階では、生前多くの悪事を行い、邪悪な所行をなした人は、刑場へと連れられて取り扱いを受けます。それは明らかに、人々を懲罰する場所です。人間が具体的にどう懲罰されるかは、その人が生前犯した罪や、悪事を行った回数に左右されます。これが第二段階で最初に行われることです。中には、懲罰を受けた後に生き返ったとき、つまり物質世界に再び生まれたとき、生前行った悪事や邪悪な所業のせいで、引き続き人間になる人もいれば、動物になる人もいます。つまり、霊界に戻った人は、自分が犯した悪事のために懲罰され、さらにその悪業のため、次に生き返る際、人間ではなく動物として戻ることもあるのです。こうした人が生まれ変わる動物には、牛、馬、豚、犬などが含まれます。中には鳥、アヒル、ガチョウなどに生まれ変わる人もいます。動物として生まれ変わった後に再び死ぬと、その人は霊界に戻ります。そして前回と同じく、霊界はその人の生前の行いに基づき、人間として生まれ変わるかどうかを決めます。大部分の人々はあまりに多くの悪事を犯し、その罪が重すぎるため、七回から十二回は動物として生まれ変わります。七回から十二回とは恐ろしくはありませんか。(恐ろしいです。)あなたがたを恐れさせるのは何ですか。人間が動物になるのは恐怖です。人間にとって、動物となって最もつらいことは何ですか。言葉をもたず、単純な考えしかできず、動物が行う物事を行い、動物が食べるものしか食べられなくなり、動物の単純な精神と身振りによる言葉を用い、まっすぐ立って歩くことも、人間と意思疎通を図ることもできず、また人間の振る舞いや活動は動物とまったく無関係であるという事実があります。つまり、万物の中で動物になったあなたがたは、すべての生物のうち最低の存在となり、そこには人間よりもはるかに多くの苦しみがあります。これが、数多くの悪事を行い、深刻な罪を犯した人に対する、霊界の懲罰の一側面です。懲罰の重さについて言えば、それは人間がどのような動物になるかで決定されます。たとえば、豚になるのは犬になるよりましですか。豚の生活は犬の生活よりましですか、それとも悪いですか。悪いでしょう。人間が牛や馬になったら、豚よりもましに暮らせるでしょうか。(ましに暮らせます。)猫として生まれ変われば、さらに快適でしょうか。動物となるのに変わりはありませんが、牛や馬になるより猫になるほうがずっと簡単でしょう。なぜなら、ほとんどの時間を怠けて寝て過ごすことになるからです。牛や馬になると苦労が増えます。ゆえに、牛や馬に生まれ変わった人は必死に働く必要があり、それは重い懲罰と同じことです。犬になるのは、牛や馬になるより少しだけましでしょう。なぜなら、犬は飼い主と親しい関係にあるからです。犬の中には三ないし五年ペットとして飼われたあと、飼い主の言葉の多くを理解できるようになるものもあります。ときには飼い主の気分や要求に合わせることもでき、すると飼い主の扱いがよくなり、食べ物や飲み物もましになり、苦痛を感じると看護してもらえます。そうすれば、犬は幸福な生涯を送るのではないでしょうか。ゆえに、犬になるのは牛や馬になるよりましです。このように、懲罰の重さによって、何回動物に生まれ変わるか、どのような動物として生まれ変わるかが決定されます。
中には生前に犯した罪の数が多すぎるため、七回から十二回にわたり動物として生まれ変わるという懲罰を受ける人がいます。十分な回数の罰を受けて霊界に戻ったとき、こうした人々は別の場所へと連れて行かれます。そこにいるのは、すでに懲罰を受けており、人間として生まれ変わる準備をしている様々な霊です。この場所では、どのような家庭に生まれるか、生まれ変わってからどのような役割を担うかなどにより、魂が一つひとつ分類されます。たとえば、この世に生まれて歌手になる人がおり、そうした人は他の歌手の中に置かれます。この世に生まれて実業家になる人は他の実業家の中に置かれ、人間として生まれてから科学研究者になる人は、他の科学研究者の中に置かれます。分類された魂は、現在の人々が電子メールを送信するときのように、それぞれ異なる予定日に送り出されます。これで生死の周期の一巡が完了します。霊界に到着したその日から懲罰が終わるまで、あるいは何度も動物として生まれ変わり、人間として生まれ変わる準備をするまで、これは完全な過程なのです。
懲罰を受け終えて動物として生まれ変わることがない人は、すぐに物質世界へと送られて人間として生まれ変わるでしょうか。その人が人間のもとにたどり着くには、どの程度の期間を要するでしょうか。そうなる頻度はどの程度でしょうか。これには時期的な制限があります。霊界で起きるすべての出来事には、正確な時間的制限と規則が適用されるのです。数値で説明すれば理解できるでしょう。短期間のうちに生まれ変わる人については、その人が死んだ際、人間として生まれ変わる準備がすでに行われています。それにかかる期間は最短で三日です。その期間が三ヵ月の人もいれば、三年の人も、三十年の人も、三百年の人もいます。それでは、こうした時期的な規則についてどのようなことが言えますか。また、その規則の詳細はどのようなものですか。それは、物質世界、つまり人間の世界が魂から必要とするものと、その魂がこの世で担うべき役割に基づいています。普通の人間として生まれ変わる場合、大部分の人がごく短期間で生まれ変わります。人間の世界には、こうした普通の人々に対する差し迫った需要があるからです。ゆえに、こうした人は三日後、死ぬ前の家庭と完全に異なる家庭へと送られます。しかし、中にはこの世で特別な役割を担う人もいます。「特別な」というのは、人間の世界にはそうした人々に対する大きな需要がないということです。そうした役割を担わなければならない人の数が多くないので、三百年後になる場合もあります。言い換えると、こうした魂は三百年に一度、あるいは三千年に一度しかこの世に現われません。それはなぜですか。その理由は、三百ないし三千年間、そうした役割は人間の世界で必要とされず、したがってそれらの魂は霊界のどこかに留められているからです。たとえば、孔子は中国の伝統文化に甚大な影響を及ぼし、その出現は、当時の人々の文化、知識、伝統、思想に大きな影響を与えました。しかし、そのような人間はどの時代にも必要というわけではなく、したがって孔子は霊界に留められ、生まれ変わるまで三百年、ないし三千年待つ必要があったのです。人間界はこのような人を必要としていないため、孔子は何もせずに待機している必要がありました。なぜなら、孔子のような役割は極めて少なく、そうした人がなすべきこともほとんどないからです。ゆえに、孔子はほとんどの期間、霊界のどこかに留められ、何もすることなく、人間界が彼を必要とするとき、そこに送られるのをひたすら待ち続けました。大半の人が生まれ変わる頻度について、霊的領域の時間的規則はこのようなものです。普通の人間か特別な人間かを問わず、霊界にはその生まれ変わりの処理に関する適切な規則と正しい慣行があり、そうした規則と慣行は神から送られたものであって、霊界の担当官やその他の存在が決めたり管理したりするものではありません。これでわかりましたね。
あらゆる魂にとって、その生まれ変わり、生涯における役割、生まれる家庭、そしてその人生がどのようなものかは、その魂の前世と密接に関連しています。ありとあらゆる人々が人間界に現れますが、その人たちが果たす役割も、行う務めもそれぞれ異なります。それでは、その務めとは何ですか。中には負債を返済するために来た人がいます。過去の生涯で他人からの借入が多すぎた場合、この世でそれらの負債を返済するために来るのです。その一方で、債権を回収するために来る人もいます。こうした人たちは過去の生涯であまりに多くのものや金銭をだまし取られたのであり、結果として霊界に到着した後、公平な扱いを受け、その生涯で債権を回収することが許されるのです。また、恩返しをするために来る人もいます。このような人は前世において、つまり以前の生まれ変わりにおいて誰かの厚意を受けたのであり、この世に生まれ変わるという素晴らしい機会を与えられたおかげで、その恩返しをするために再び生まれたのです。その一方で、人命を奪うために生まれ変わった人々もいます。それでは、こうした人たちは誰の命を奪うのですか。彼らが奪うのは、以前の生涯でそうした人々を殺した者の命です。要するに、各人のいまの人生は、過去の生涯と密接な関わりをもっており、そのつながりを断つことはできません。つまり、各人のいまの人生は、前世によって大きく影響されるのです。たとえば、チャン氏が生前リー氏から巨額の金銭をだまし取ったとしましょう。チャン氏はリー氏に借りがありますか。借りがあるので、当然リー氏はチャン氏の借りを回収すべきです。結果として、両氏の死後には精算されるべき貸し借りが残ります。両氏が生まれ変わった際、チャン氏が人間になったとすれば、リー氏はどのようにしてチャン氏の借りを回収しますか。回収方法のひとつに、チャン氏の息子として生まれ変わるというものがあります。つまり、チャン氏が大金を稼ぎ、リー氏がそれを浪費するのです。チャン氏がどれほど多くの収入を得ても、息子のリー氏がそれを浪費するというわけです。チャン氏がどれほど多く稼いでも、それで十分ということは決してなく、どういうわけか彼の息子が、父親の金を様々な手段で常に消費してしまうのです。チャン氏は不思議に思ってこう考えます。「なぜ息子はいつもこんな悪運をもたらすのか。他人の息子がこんなに立派なのはなぜなのか。わたしの息子に野心がなく、役立たずで収入を得られず、常にわたしが支援しなければならないのはどうしてなんだ。わたしは息子を支援する必要があるので支援するが、わたしがいくら金銭を渡しても、息子が常にそれ以上の金額を必要とするのはなぜだろうか。息子がまっとうな仕事に就けず、ぶらぶらしたり、飲み食いしたり、風俗や賭博に明け暮れたりするなど、ありとあらゆることをするのはどうしてだ。一体どうなっているんだ」。チャン氏はしばらく考えます。「前世で息子に借りがあるのかもしれない。それなら借りを返そう。わたしが返し終わるまで、これが終わることはないだろう」。やがて、リー氏が借りを返してもらう日が来て、四十代、あるいは五十代になって突然正気に戻るでしょう。そして次のように気づくのです。「自分はこの半生でずっと、善い行いを何ひとつしてこなかった。父が稼いだ金をすべて浪費してしまった。だから、わたしは善人にならなければならない。わたしは決心した。正直な人になって正しい生活を送り、二度と父を悲しませない」。リー氏がこのように考える理由は何ですか。リー氏が突然よい方向に変わるのはなぜですか。その理由は何ですか。(リー氏が貸しを回収したからです。チャン氏は借りを返したのです。)これには因果関係があります。話の発端はずっと以前、両者が現在送っている人生の前にまで遡ります。両者の前世における経緯が現在にまで持ち越されているので、どちらも相手を責められません。チャン氏が息子に何を諭しても、息子は一切聞こうとせず、真面目に働こうともしませんでした。しかし借りがなくなった日、息子を諭す必要はなくなり、息子は自然と理解しました。これは簡単な例です。このような例は数多くありますか。(あります。)この例は人々に何を伝えていますか。(人間は善良でなければならず、悪事を行ってはいけないということです。)悪事を行ってはならず、悪業には報いがあるということです。未信者の大半は数多くの悪事を行い、その悪業は報いを受けます。そうですね。しかし、こうした報いは恣意的なものですか。すべての行いについて、それに対する報いには背景と原因があります。誰かから金銭をだまし取っても、自分には何も起こらないと思いますか。その金銭を騙し取った後、何の結果も生じないと思いますか。そのようなことはあり得ません。必ず結果が生じます。自分が誰であろうと、あるいは神がいることを信じようと信じまいと、すべての個人は自分の行動に責任を負い、その行動による結果を背負わなければなりません。ここで挙げた簡単な例では、チャン氏が懲罰を受け、リー氏が借りを返してもらいましたが、これは公平なことではないですか。人間がこのようなことをした場合、こうした結果が生じるのです。このことは霊界の管理と切り離せない関係にあります。たとえ未信者であっても、神を信じない人の存在はこうした天の法令や命令の対象となり、誰もそれから逃れられず、この現実を避けられません。
信仰をもたない人は、人間の目に見えるものはどれも存在し、見ることができないもの、あるいは人間から遠く離れたものは存在しないとよく考えます。そのような人は、「生死の周期」も「懲罰」も存在しないと考えたがり、それゆえためらうことなく罪を犯し、悪業を行います。その後、彼らは懲罰を受け、動物に生まれ変わるのです。様々な未信者のうち大半の人がこの悪循環に陥っています。なぜなら、あらゆる生物の管理について、霊界が厳格であることを知らないからです。信じるかどうかを問わず、この事実は存在します。神の目が届く範囲から逃れられる人や物はなく、神の天なる法令や命令によるきまりや制限から逃れられる人や物も存在しないからです。したがって、神を信じようと信じまいと、罪を犯して悪事を行うことは認められず、すべての行動には結果が伴うということを、この簡単な例は一人ひとりに教えています。他人から金銭をだまし取った人は懲罰を受け、その懲罰は公平です。こうした典型的な行動は、霊界においては罰せられ、その懲罰は神による命令と天の法令によって下されます。ゆえに、強姦や強奪、詐欺や欺き、窃盗や強盗、殺人や放火といった重大な犯罪や悪事に対しては、それにも増して様々な重さの懲罰の対象となるのです。こうした様々な重さの懲罰にはどのようなものがありますか。期間によって重さが決まる懲罰もあれば、その方法によって重さが決まる罰、あるいは生まれ変わるときの行き先で重さが決まる懲罰もある。たとえば、中には口汚い人がいます。ここで「口汚い」とは何を意味しますか。よく他人に暴言を吐いたり、他人を罵る悪意に満ちた言葉を使ったりすることです。悪意に満ちた言葉が強調しているのは何ですか。それは、その人が悪意に満ちた心の持ち主であることを示しています。そうした人の口からは、他人を罵る汚い言葉がしばしば飛び出ますが、そのような悪意に満ちた言葉は深刻な結果をもたらします。そうした人々は死んで相応の懲罰を受けた後、口の利けない人として生まれ変わるかもしれません。中には生前極めて計算高かった人がいます。そのような人はしばしば他人を利用し、その手口は極めて周到であって、人を傷つけることを数多く行います。こうした人は生まれ変わると、知能や精神に障害がある人として生まれ変わる可能性があります。また、他人のプライベートな物事を頻繁にのぞき見て、見るべきではない内情を山ほど見たり、知るべきではない事柄を数多く知ったりする人もいます。そうした人は結果として、全盲者として生まれ変わるかもしれません。生前短気で喧嘩をすることが多く、邪悪なことを多数行った人もいます。彼らはそのせいで身体や手足に障害を負って生まれ変わったり、片腕をもたずに生まれ変わったりするでしょう。さもなくば、背中や首が曲がった状態、足を引きずって歩く状態、あるいは一方の足が他方よりも短い状態で生まれ変わるかもしれません。これらの場合、その人は生前に行った悪事の程度に基づいて、様々な懲罰の対象とされたのです。斜視の人がいるのはなぜだと思いますか。そのような人は数多くいますか。現在、斜視の人は数多くいます。生前に目を使いすぎてあまりに多くの悪事をなし、そのため斜視をもってこの世に生まれ変わり、深刻な場合は全盲者として生まれる人もいます。これが報いなのです。また中には、生前に他の人々と仲よくできて、自分の親族、友人、同僚、あるいはその他の知り合いに対して多数の善行を重ねる人がいます。こうした人は他人に思いやりと配慮を傾けたり、金銭的に支援したりします。そして人々は彼らを高く評価します。こうした人は霊界に戻っても懲罰を受けません。未信者が何らかの形で懲罰を受けないということは、その人が極めて善人だったことを意味します。こうした人は神の存在を信じず、天の父だけを信じています。自分の頭上に魂があり、あらゆる行いを見ていると信じていますが、その人が信じているのはそれだけです。結果として、その人は極めて行いがよいのです。こうした人たちは親切で思いやりがあり、最終的に霊界へと戻った際、極めて優遇され、すぐに生まれ変わります。彼らは生まれ変わったとき、どのような家庭に生まれますか。そのような家庭は裕福ではないものの、何の害悪もなく、家族は互いに調和しています。生まれ変わった人は安全かつ幸福な日々を送り、誰もが喜びに満ちた素晴らしい生活を送るのです。これらの人たちは成人すると大家族になり、子供たちは才能に溢れて成功し、その家族は幸運に恵まれます。そしてこのような結果は、それらの人たちが送った過去の人生と密接に関係しています。つまり、死んで生まれ変わった人がどこに行くか、男になるか女になるか、その人の使命がどのようなものになるか、人生で何を経験するか、どのような挫折に苦しむか、どのような祝福を享受するか、誰に出会うか、そして我が身に何が起こるかについては、誰もそれらを予測したり、回避したり、逃げ隠れしたりすることができないのです。すなわち、いったんあなたの人生が定められると、自分に何が起ころうと、そしてあらゆる方法を用いてそれを避けようとしたとしても、神が霊界であなたのために定めた人生の進路から外れることは決してできません。なぜなら、生まれ変わったとき、あなたの人生の運命はすでに決定されているからです。それがよいか悪いかを問わず、誰もがそれに向き合い、前進し続ける必要があります。これは、この世に生きる誰もが避けられない問題であり、これ以上に現実的な問題は存在しません。わたしが言ったことは全部理解しましたね。
これらを踏まえて、未信者の生死の周期について、神が極めて精密かつ厳格な確認と管理を行っていることを、あなたがたはもう理解しましたか。まず、神は霊界における様々な天の法令、命令、組織を定めました。それらはいったん宣言されると、霊界で様々な役務を担当する者により、神が定めた通り極めて厳密に施行され、あえて違反する人はいません。したがって、人間界における人類の生死の周期には、動物として生まれ変わるか、人間として生まれ変わるかについて、その両方に法則が存在するのです。これらの法則は神に由来するため、それに背こうとする人はおらず、背くことができる人もいません。人に見える物質世界が規則正しく整然としたものであるのは、ひとえにこうした神の統治と法則があるからなのです。そして、人間が自分にはまったく見えない別の世界と平和に共存し、そこで調和して生活できるのは、神によるこの統治のためであり、それはどれも神の統治と切り離すことができません。人の肉体的ないのちが死を迎えても、魂にはいのちがあるとすれば、神の管理下になければどうなるでしょうか。その魂はありとあらゆる場所をさまよい、どこにでも侵入し、人間界の生き物を害することすらあるでしょう。こうした危害は人類だけでなく植物や動物にも加えられますが、最初に害を受けるのは人間でしょう。このようになれば、つまりこうした魂が管理されておらず、人間に本当の危害を加え、実際に邪悪な物事を行ったとしたら、この霊は霊界で適切に取り扱われることにもなるでしょう。事態が深刻な場合、その魂はたちまち消滅し、滅ぼされるはずです。可能であれば、どこかに置かれて生まれ変わるでしょう。つまり、霊界における様々な魂の管理は整然としており、様々な段階と規則に従って実行されます。人間の物質世界が混乱に陥らず、物質世界の人間が正常な精神と理性をもち、秩序ある肉体的生活を送っているのは、ひとえにこうした管理があるからです。人類がそうした正常な生活を送って初めて、肉体において生きる人は何世代にもわたって繁栄し、増え続けることができるのです。
たったいま聞いたことについて、あなたがたはどう思いますか。新鮮に感じますか。今日の交わりの主題は、あなたがたにどのような印象を残しましたか。新鮮さ以外に何かを感じましたか。(人間は正しく行動する必要があると思いました。また神は偉大でいらっしゃるので、畏れるべき方だと感じました。)(神が様々な種類の人間の結末をどのように采配なさるかについて神のお話を聞いたばかりですが、神の性質はいかなる背きも許さず、神を敬うべきだと感じました。その一方で、神がどのような人を好まれるか、どのような人を好まれないかも認識しました。なので、神が好まれる人間になりたいと思います。)この分野における神の行動に原則があることを、あなたがたは理解しましたか。神はどのような原則に従って行動しますか。(神は人間の結末を、その人のすべての行いに従ってお決めになります。)それは先ほど話した、未信者の様々な結末に関する事柄です。未信者について、神の業の背後にある原則は、善を讃えて悪を懲罰するものですか。例外はありますか。(ありません。)神の業に原則があることを理解しましたか。未信者は実際に神を信じておらず、神の指揮に従うこともありません。加えて神の統治を認識しておらず、ましてや神を認めることなどありません。さらに深刻なことに、こうした人々は神を冒瀆し、神を呪い、神を信じる者に対して敵意を抱いています。神に対する彼らのこの態度にもかかわらず、彼らに対する神の統治は、依然として神の原則から逸脱しません。神は自身の原則と性質に従い、秩序ある形でこうした人々を管理するのです。神はこうした人々の敵意をどのように見なしますか。無知と見なします。結果として、神はこうした人々、すなわち未信者の大部分を、以前に動物として生まれ変わらせたのです。それでは、神の目から見て、未信者とはいったいどのようなものですか。どれも獣です。神は人類だけでなく家畜も管理するので、この種の人に対しても同じ原則があります。これらの人々に対する神の管理中にさえ、やはり神の性質と、神による万物支配の法則が見て取れます。これで、わたしが先ほど触れた、未信者を管理する原則における神の統治を理解しましたか。神の義なる性質がわかりましたか。(わかりました。)言い換えると、神が取り扱う万物のうち、それが何であれ、神は自身の原則と性質に従って業を行うのです。これが神の本質です。神は、こうした人を獣と見なしているからといって、自ら定めた規則や天の法令を軽々しく破ることは決してありません。神は原則に従って業を行いますが、無闇にそうすることは決してありません。そして神の業はいかなる要素にも影響されることが一切ありません。神が何をしようと、それはすべて神自身の原則に従います。神には神自身の本質があるからであり、それはいかなる創造物も有していない神の本質の一側面です。自ら造ったあらゆる物、人、生物の取り扱い、取り組み、経営、管理、支配について、神は誠実で責任をもっており、その点に関して注意を怠ることは決してありません。神は善良な人々に対して慈悲深く親切であり、邪悪な人々に対しては容赦ない懲罰を与えます。また様々な生物については、人間界におけるその時々の必要性に従い、時宜を得た規則的な方法で適切な采配を行うので、そうした様々な生物は、それぞれが受け持つ役割に従い、整然と生まれ変わり、秩序をもって物質世界と霊界の間を行き来するのです。
生物の死、すなわち物理的な生命の終焉は、その生物が物質世界から霊界へと移動したことを示します。一方、新たな物理的生命の誕生は、生物が霊界から物質世界に来て、その役割を引き受けて果たし始めることを示しています。それが生物の出発であろうと到着であろうと、いずれも霊界における働きと切り離すことはできません。ある人が物質世界に到来した段階で、その人が生まれる家庭、到着する時代と時刻、そしてその人が担う役割について、その人に適した采配と定義が神によってすでになされています。そうしたわけで、その人が送る一生、行う物事、そして進む道は、霊界でなされる采配に従い、一切逸脱せずに進行します。さらに、物理的な生命が終焉を迎える時、そして生命が終わるかたちと場所は、霊界においては明瞭で識別可能です。神は物質世界と同時に霊界も支配し、魂の正常な生死の周期を遅らせることは一切なく、その周期の采配で間違いを犯すことも一切ありません。霊界の各部局に所属する担当者は、神の指示と支配に従ってそれぞれの任務を遂行し、なすべきことを行います。ゆえに人間界では、人が目にするあらゆる物質的現象に秩序があり、混沌は一切存在しないのです。こうしたことは、すべて神による整然とした万物の支配と、神の権威が万物を支配しているという事実の賜物です。神の支配には、人間が生活する物質世界のほか、人類の背後にある目に見えない霊界が含まれます。そうしたわけで、人間がよい生活を願い、好ましい環境の中で暮らすことを望むのであれば、目に見える物質世界全体の施しを受けることに加え、霊界の施しも受けなければなりません。そして、それは誰も見ることができず、人間のためにあらゆる生き物を統治し、そして整然としたものです。これで、神は万物のいのちの源であると言った際の、「万物」に対する意識と認識が高まったのではないですか。(高まりました。)
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 X.」(『言葉』第2巻)