「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。」(テモテヘの第二の手紙4:7-8)
多くの人はパウロのこの言葉によって、主のために説教をして、労力を費やすことでパウロを見習いながら、休むことなく働いていれば、主が再臨される時に直接天国に引き上げられると考えています。人の目にはこのように実践することは正しく映り、誰もそれには反対しません。しかし、これは神の御心には適っているのでしょうか?
「主イエス様はこう仰りました:『わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか」と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音書7:21-23)主の御言葉から、主イエス様は「ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」としか仰っておられないことが分かります。主は主のために懸命に働く者全てが祝福され、天国に入るとは仰っておられません。パリサイ人が福音を伝導するために地と海を渡り、骨折って働いていた時のことを思い出してください。彼らは神のために懸命に働くことを投資とし、人々に自分たちを崇拝させ、自分たちに従わせていました。主イエス様が働きをしに来られた時、彼らはユダヤの民の多くが主イエス様に従っていることを知りました。自分たちの地位や生活を失うことを恐れた彼らは狂信的に主イエス様に逆らい、主イエス様を非難し、ついにはローマ政府と共謀して主を十字架に釘付けにしたのです。なので、彼らは神のためにどれだけ一生懸命に働いていても、結局は神に逆らい、悪事を働いていただけなのです。それで天国に入れるわけがないのです。現在、存在する各宗派と分派に属する人々を見てください。その多くは苦しみ、代償を払い、主のために休みなく働いても、決して主の御言葉を実践することがなければ、各々の業務や説教を行う中で神を称賛したり、神の証言をすることもありません。代わりに、彼らは頻繁に自らの地位を確立して他人に自分のことを尊敬させ、従わせています。彼らのやること全てが自分の地位と収入を維持するためであり、それ以上に天国に入るためにやっていることなのです。このような代償を払っても神と取引をしているようなものです。なので、彼らが神の御心通りに実践する人々であるはずがないのです。一生懸命に働くだけでは天国には入れないし、そうすることが天国に入るための条件でもないことは明らかです。」
それでは、いったい天の父の御旨を行うこととは何でしょうか。天の父の御旨を行うことは主に人の心には神様を愛し、神様を崇め、神様を畏れ悪を避け、主の御言葉を実践し、主の戒めを守り、常に神様を高く掲げ、神様を証しし、真心で主のために費やし、取引がなく、要求することもなく、試練の中で神様のために証しに立ち、神様の支配と采配に従うことを指しているのです。これこそ神様の旨を行うことです。まさに主イエスが言われた通りです。「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。」(マタイによる福音書22:37−39)そのため、神様の旨を行う人は皆罪から抜け出して聖さを得る人であり、真理を実践し、本当に神様に従う人であり、常に主の御言葉を実践し、主の戒めを守る人であり、心には神様を愛し、主の御言葉によって生きる人です。もし人の心には神様を愛さず、働きや伝道すると同時に神様と取り引きし、常に神様に抵抗し、神様に逆らい、神様の言葉を実践せず、これはどうして神様の旨を行うことと言えようか。どうして罪から抜け出して清くなったと言えようか。私たちは皆このような事実を見ました。多くの人は主を信じて主の御名によって働き、伝道し、十字架の苦しみを背負い、牢屋に入れられ、殉道さえできますが、これは人が主への信仰心と熱心を持っていることだけを表します。しかし、否認できないのは、人が苦労して働くと同時に、常に神様に逆らい、神様に抵抗し、自分の好みによって物事を勝手気ままに行い、分派を引き起こし、独立王国さえを建て上げます。また多くの人は働いて苦しみを受けるのは神様を愛し、神様を満足させるためではなく、報酬や冠だけを求め、それによって少しの働きをし、少しの苦しみを受けた後、自分の経歴の長さゆえに大胆に振る舞ったり、資格を見せびらかしたりし、全く確信を持って神様に天国の祝福を求めます。これらの事実は次のことを十分に説明できます。人は主の御名によって多くを放棄し、自らを費やし、苦労して働くことができるのは、神様の旨を行うことを証明できず、さらに神様に称賛され、天国に入って見返りを得る資格があることも証明できません。なぜなら、人のうちにはサタン的本性はまだ解決しておらず、罪の束縛から抜け出せず、働きをすると同時にまた悪を行い、神様に抵抗し、神様にさえ敵対し、これはどうして神様の旨を行う人だと言えようか。どうして天国に入る資格があり得ようか。
それでは、どのようにして父の御旨を行って神様の国に入ることができるでしょうか。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12−13)「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12:47−48)主イエスの言葉が明示されています。主イエスは恵みの時代で堕落した人類が救われることで必要とするすべての真理を皆人類に与えられていなく、また多くのより深く、より高い真理、つまり人類をサタンの堕落した性質から抜け出して清くさせられ、及び神様に従い、神様を認識する多くの側面の真理を人類に教えられていませんでした。そのため、主が再来されて人類を救うすべての真理を発表し、あらゆる主の終わりの日の救いを受け入れる人を裁き、刑罰し、清め、完全にし、最終的にこれらの人を神様の旨を行う人を作られ、神様の国に導き入れ、こうしてこそ神様の人類を救う経営計画が徹底的に完成されるのです。主の終わりの日の裁きの働きを受け入れてこそ、真理を得られて性質の変化を実現することに達し、神様の旨を行う人になって神様の国に入るのです。
ヨハネの黙示録もこう預言されています。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録3:20)また多くの箇所にこう書かれています。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録2:7)したがって、私たちは主が再来されて真理を発表して裁きの働きをなさるとの証しを聞いた時、謙虚で尋ね求めてこそ、主の出現を迎えられ、主の再来の救いを受け入れられ、天の父の御旨を行う人になって天国に引き上げられる機会を得られるのです。