寄稿家:ラマディ(フィリピン)
何年も主を信じてきたクリスチャンである私は、牧師が説教でこのように言うのをしばしば聞いてきました。「私たち信者はすでに罪を贖われ、赦されています。主はお戻りになるとき、私たちを天の国へと直接引き上げてくださいます」しかし主イエスがお戻りになって私たちを天の国へと引き上げてくださるのを辛抱強く待つ間、とりわけ苦しく、私を戸惑わせることが起きたのです。
私は信者になったあと、頻繁に聖書を読み、祈り、集会に出席したものの、日常生活で主の教えを守れていないことにしばしば気づき、当惑していました。自分を愛するように隣人を愛し、他人を七十七回赦すよう、主が私たちに命じられたことはよく知っていましたが、夫が私の言うことを聞かなかったり、周りの誰かが私の気に入らないことをしたりするたび、私はどうしても腹を立てずにはいられませんでした。罪の意識を感じて後悔し、頻繁に主に祈って告白するものの、別の状況に出会うといつも自分を制御できなくなってしまうのです。さらに、世間の流行に魅了され、引き込まれる誘惑を乗り越えることができませんでした。私はいつも世間の流行を追い求めていたのです。美しい服や化粧に夢中になり、物を買ったりウインドウショッピングしたりすることをいつも考えていました。私の心は物質的な喜びにすっかり取り憑かれ、ディボーションや聖書を読むことよりもそうしたことのほうにより多くの時間を費やしていました。しばらくすると、ますます聖書を読もうと思わず、教会の礼拝にもまったく行きたくなくなるまでになってしまいました。そのような振る舞いを主が好まれないのは知っていたので、私は堕落への道をこのまま進んでいかないよう努力する中で、聖書を読みインターネットで説教を探すことを自分に課しました。しかし自分の計画をきちんと守ってはいても、心からそれを楽しんでいたわけではなく、私の生活は主のお言葉からどんどん離れていきました。教会の友人に連絡をとってこのことを話しもしたのですが、もっと祈る限り主はご慈悲と愛を見せてくださるとか、主は私たちの罪を赦してくださるなどと言うばかりでした。私はそうした答えから何の安堵も感じませんでした。聖書にはっきりとこう書かれているからです。「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル人への手紙12:14)。「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない」(ヘブル人への手紙10:26)。みんなが言うように主が私たちを限りなく赦してくださるなら、主に祈る限り私たちの罪は赦されます。それなら、「真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない」と聖書には書かれているのでしょう。罪のためのいけにえがなければ、私たちはどうして天の国に入れるでしょうか。私は心の中でこれらの疑問が理解できませんでした。しばしばこのことで悩み、主に祈りました。「ああ主よ、私は罪を犯しては、その罪を告白する状態の中で暮らしています。とても困っています。罪から逃れるために何ができるでしょうか。どこで答えを見つけられるでしょうか。主よ、このことについての御心をお教えください。アーメン」
その後2018年1月、私はインターネットで中国の姉妹二人と出会い、チャットを通じて彼女たちがとても敬虔なクリスチャンであることを知りました。私たちは信仰についてあらゆることを話し合ったのですが、交流がしばらく続いたあと、私は二人と本当に近づいたような気がして、互いに心を打ち明けられると感じ始めました。二人は生活においても実に信心深く、聖書について独自の理解と洞察を有していました。彼女たちとの交わりは本当に光に満ちていて楽しく、二人と聖書を掘り下げるのが心から好きでした。
一度、スーザン姉妹がとても真剣にこう言ったことがあります。「主はすでにお戻りになっていて、人類を裁き、清め、救うという終わりの日の働きをなさっています」
それを聞いて私は驚き、こう言いました。「主イエスはもう十字架にかけられて私たちの罪を贖われ、ご自分の働きを終わらせたのよ。主はお戻りになるとき、私たちを直接天の国へお連れになるんじゃないかしら。どうして裁きの働きもなさるの。主の働きはまだ終わっていないということなの」
姉妹ルーシーはその返事として次の話をしてくれました。「十字架にかけられるという主イエスの働きが終わり、私たちが罪を贖われ赦されたというのは確かに本当です。でも贖いというのは、私たちが天の国に入れることを意味しているのでしょうか。神様の御言葉の一節を読みましょう。そうすれば理解できます。『罪を赦されたが、人の中にある堕落したサタン的性質がいかに清められるかについて言えば、その働きはまだなされていなかったのである。人は信仰のゆえに救われ、罪を赦されただけで、人の罪深い本性は根絶されず、依然としてその内面に残っていた。人の罪は神の受肉を通じて赦されたが、それはその人の中にもはや罪がないという意味ではない。人の罪は、罪の捧げ物を通じて赦されることができたものの、どうすれば人がこれ以上罪を犯さないようになり、その罪深い本性が完全に根絶され、変化するかということについて言えば、人にはその問題を解決する術がないのである。人の罪は神による磔刑の働きゆえに赦されたが、人は以前の堕落したサタン的性質の中で生き続けた。そのため、人は堕落したサタン的性質から完全に救われなければならない。そうすることで、その人の罪深い本性が完全に根絶され、二度と芽生えなくなり、かくして人の性質が変わるのである。そのためにも、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変える道を把握しなければならない。さらに、人はこの道に沿って行動することが求められる。その結果、人の性質は次第に変わり、その人は光の輝きの下で生き、何事も神の旨に沿って行ない、堕落したサタン的な性質を捨て去り、サタンの闇の影響から自由になることができ、それにより罪から完全に抜け出せるのである。このとき初めて人は完全なる救いを受けることになる。』」
これら神様の御言葉を読んだあと、姉妹スーザンはこう語りました。「神様の御言葉から、主イエスがなされたのは贖いの働きだということがわかります。主は私たちの罪を贖われ、私たちを罪から救ってくださいました。救われるということは、私たちが律法を守れないからといってもはや罪に定められることがなく、主の救いのお恵みを受け入れることを指しているに過ぎません。それは、主の御前に出て祈り、告白して悔い改め、主が私たちに授けられたお恵みと祝福を享受できるようになったことを指しています。ですが、私たちの罪深い本性は取り除かれていません。私たちはいまだに罪を犯しては告白するという状態の中で暮らしているのです。例えば、私たちは日常生活において他人と交わる中で、しばしば傲慢な性質を露わにし、他人が自分の言うことに耳を傾け、従うようになってほしいといつも願っています。私たちが主を信じているとしても、主は私たちの心に居場所を持っておられないのです。私たちはいつものようにこの世のものをむやみに欲しがり、世俗の流行を追いかけます。中にはこの世の栄光と富、そして肉の喜びを求めて神を完全に見捨てる人さえいます。罪の中で暮らす私たちのような人間に、どうして神様の国に入る価値があるでしょうか。主イエスはこうおっしゃいました。『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる』(ヨハネによる福音書8:34-35)。主の御言葉はとてもはっきりしていました。罪の奴隷は神様の国にいることができません。だから、私たちは今なお頻繁に罪を犯しているので、神様の国に入る資格がないのです。私たちが罪を清められ、神様と相容れることができるようになるために、神様の救いの働きがいまだにもう一段階必要なのは、それが理由です。さもなければ、私たちは天の国に入る神様の承認を得られません」
神様の御言葉の一言一言と、姉妹が語ってくれたこの話は、私に深く鳴り響きました。つまり主イエスの働きは、主が私たちの罪を赦す贖いの働きに他ならず、もはや私たちのことを罪人として見ないという、私たちに対する主のご慈悲だったのです。けれどそれは、私たちに罪がなく、汚されていないことを意味していたのではありません。私たちは今なお自分の意思に反して頻繁に罪を犯しますし、それは私たちが今も罪深い本性を持っているからに他なりません。私は夫にどう接していたかを思い浮かべました。何事においても夫が耳を傾けてくれるよう望み、そうしなければ腹を立てていました。また世俗の流行を追いかけ、心は物質的な物事で占められていました。そのうえ集会にちゃんと出席したり聖書を読んだりすることすらできませんでした。何度も主に祈り、告白したものの、止まることなく罪を犯し続けたのです。それはすべて、自分のサタン的な本性に支配されているからでした。パウロがこのように言ったのも不思議ではありません。『わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである』(ローマ人への手紙7:18)。私たちの中には罪深い本性が深く根を下ろしており、真理を実践して神様に満足していただきたいと思っても、罪を犯して神様に抵抗せずにはいられません。私たちは汚れで満ちており、神様の国に入る価値はまったくありません。それに気づいたとき、私は急いでこう尋ねました。「主イエスは贖いの働きをなさり、終わりの日に来られたとき、私たちから罪を取り除く働きの一段階をなさるだろうと、あなたは言っています。それなら、主はどのようにしてその働きをなさるのでしょうか」
姉妹スーザンは微笑んでこう言いました。「姉妹、あなたはとても大事な質問をしました。事実、聖書にはこの点について書かれた次のような預言があります。『たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう』(ヨハネによる福音書12:47-48)。『さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか』(ペテロの第一の手紙4:17)。これらの聖句から、主は終わりの日に来られるとき、私たちが真理を理解して入れるようにするため、必要とするすべての真理を表現なさることがわかります。それは主イエスによる贖いの働きの続きであり、人間を清め完全にするための、神様の家から始まる裁きの働きの一段階です。全能神の御言葉に関する次の二つの文章を読めば、それがはっきりするでしょう。神様の御言葉はこうおっしゃっています。『神がこの時代に実行する働きは、おもに人間のいのちのための言葉を与えること、人間の堕落した性質および人間の本性の実質を暴くこと、そして宗教的観念、封建的思考、時代遅れの考え、さらに人間の知識と文化を一掃することである。これらのことはすべて神の言葉による暴きを通して清められなければならない。』 『終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、徹底的に納得して神への服従に向かうようになり、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。』」
姉妹スーザンは話を続けました。「終わりの日、神様は言葉を用いて裁きの働きをなさると、神様の御言葉は私たちに示しています。神様によって表現された言葉のすべてには、神様の義なる性質とともに、神様が所有するものと神様そのもの、神様の経営計画の奥義、そして人類の救いにおける神様の意図と御心が含まれています。それに加えて、それらは人々の罪深さと神様への反抗の根源、人間の堕落の真相、そして人類の最終的な終着点と結末を表現しています。真理のそうした側面がすべて含まれているのです。それらはいずれも、私たちのいのちに糧を提供する言葉です。終わりの日における神様の裁きと刑罰の働きを経た人はみな、自分の心の奥深くで神様の吟味を体験します。神様の御言葉は鋭い剣であり、神様を裏切るという私たちのサタン的な本性や、私たちの心に潜む卑劣な動機を切り裂き、露わにします。それは私たちの心の奥底に隠れた誰も知らないサタン的な考えさえも暴露します。そのことは、生活における振る舞いや他人の扱いといった小さなことから、信仰に対する視点、あるいは私たちが歩んでいる道はサタンの世俗的な哲学と生存法則にすっかり依存しているという事実といった大きなことに至るまで、私たちがどれだけサタンによって堕落させられてきたかを示しています。私たちは神様の御言葉を通じて、自分が本質的に傲慢、不正、欺瞞、貪欲、邪悪、自己中心、そして卑劣に満ちていること、また私たちのうち神様を信じる者でさえも祝福を得て報われるためにそうするのだということがわかります。それが真理を追求するためでも、いのちを獲得するためでも、本当の人間らしさを生きるためでもまったくなく、神様の御前で生きる価値がこれっぽっちもないことに私たちは気づきます。そうして心の中から悔い改め、自分を憎むことを始めるのです。それと同時に、私たちは神様の御言葉の権威と力だけでなく、神様の正しく聖なる性質、侵すことのできない性質について、とても深く経験しています。私たちは神様の御前でひれ伏し、神様に悔い改めて自分の方法を変え、自分自身のサタン的な本性を憎まずにはいられません。このようにして、私たちは喜んで神様の裁きと刑罰を受け入れるようになり、真理を実践に移し、神様に満足していただく新しい人になることを決意するのです」
姉妹ルーシーは感動してこう言いました。「本当ね!神様の御言葉による暴きと裁きがなければ、私たちは自分自身の堕落した性質、本性、そして本質を本当に知ることはないでしょう。私たちは明らかに堕落しきっているけれど、それでも自分を立派だと思っているし、主によって天の国に引き上げられる資格があると考えています。私も以前は、自分のことを温かく優しい人間だといつも考えていて、誰かと口論することは絶対にありませんでした。それに、信者になってからは本当に行儀がよく、多くのよいことをしたから、自分はよい人で、主が来られたとき天の国に直接引き上げられるだろうと考えていました。でも終わりの日における全能神の働きを受け入れてからは、神様の御言葉が暴露することを通じて、自分が『よい」というのは単なる見せかけで、本当はよくないのだということがはっきりわかりました。それらのことを行なったのは、他人の賞賛を得て、人々が自分を見上げるようにすることが動機でした。私は、他人の目に完璧な像を見せるように振る舞っていたんです。しかも、事あるごとに主の教えを破り、神に反抗的で苦痛をもたらしただけでなく、傲慢で、人の言うことに耳を傾けるのが嫌でした。そのうえ嘘をつき、自分の利益のために不正なことをしました。頻繁に自分を讃え、自分の証をし、人々の心の中の地位を求めて神様と争いました。私は大天使の道を歩いていたのです。そのことを考えたとき、心から恥ずかしくなって罪の意識を感じました。私は自分を嫌い憎みました。それからはもう、自分がどれだけ優れているかを自慢することはなく、神の国に入る資格があるとも考えませんでした。その代わりに、神様の御言葉の裁きと刑罰を心から本当に受け入れ、自分の堕落した性質を捨て去ったんです。私を自分の観念や想像から目覚めさせ、自分の本当の状態に気づかせ、真理と性質の変化を追い求める道に踏み出させてくれたのは、神様の御言葉です。それはすべて、終わりの日における神様の働きの果実なんです」
私は姉妹の話に心から感動しました。私が自分自身の観念と想像にしがみつき、いつも明らかに罪を犯しながらも、主がお戻りになって自分を天の国へ引き上げてくださるのを待っていたことを、その話は示していたのです。それは本当に現実からかけ離れています。神様の裁きの働きに関する姉妹たちの証言と、彼女たち自身の経験を通じて、罪を振り払う実際の道を示してくださったことに対し、私は神様に感謝します。私はもはや、罪から逃れられないせいで苦しんだり無力に感じたりしなくても済むようになりました。神様の裁きの働きを受け入れて経験する限り、罪深さから解放され、神の国に入る機会を得られるのだと、私は信じています。
私は嬉しくてこう言いました。「主に感謝します。私はまだ全能神による裁きの働きを経験していませんが、あなたの経験を通じて私たちに対する神様の愛と救いを実感できます。これからはあなたたちお二人ともっと交流して、全能神の働きや、あなたたちの経験と証言をもっと理解できるようになりたいと思います」二人はそれを聞いて感激しました。
しばらくの間、探し求めたり、調べたり、二人の姉妹たちと集まったりして、私は真理をさらに理解するようになりました。全能神は実はお戻りになった主イエスだと確信し、終わりの日の働きを喜んで受け入れました。心の中がとても暖まるのを感じました。神様は私にとても優しくしてくださったと、私は信じています。神様は私の祈りにお答えになっただけでなく、その御声を聞いて賢い乙女の一人になるよう、私を導いてくださったのです。ありがとうございます、神様!すべての栄光は全能神にあれ!アーメン!