他人との付き合い方の三原則
主イエスは仰せられました。「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」(ヨハネによる福音書13:34–35)。「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」(マタイによる福音書5:9)。主イエスは私たちに他人と仲良く付き合い、互いに愛し合うことを求められています。しかし私たちはそれぞれ家庭背景や生活習慣、人格や年齢、人生経験が異なるため、兄弟姉妹との付き合いにおいて偏見や誤解が生じ、お互いの間に対立や摩擦が生じることは避けられません。そうなれば他人と仲良く付き合うという主の要求に従うことができなくなり、双方が傷つきます。これは私たちに多大な苦痛をもたらしかねません。なぜ私たちは主の教えを守れないのでしょうか。他人と仲良く付き合うにはどうすべきなのでしょうか。以下では、皆さんと三つの原則について交わります。これらの原則がすべて実践できれば、他人と仲良く付き合うことは簡単になります。
1.他人との付き合いにおいて、自分の気持ちや個人的な好みで行動せず、 誰でも公平に扱う
私たちは教会で多くの兄弟姉妹と出会う機会がありますが、完璧な人は誰もいません。みなそれぞれ欠点があります。さまざまな異なる人と会うと、私たちは大概自分の感情と個人的な好みに基づいた接し方をします。たとえば、歌と踊りが得意な人もいれば、さまざまな方面で才能があって特別な能力を多く持っている人もいます。私たちはそのような人と関わりたいと思います。自分の足りない部分を補い、助けてくれるからです。しかし、特別な能力を持たない人もいれば、欠点や短所のある人もいますし、身体障害のある人もいます。私たちはこのような人とは関わりたいと思わず、むしろ問題があることを理由にこき下ろしたり蔑んだりします。実際、このような人が話に出てきただけで、いつもまずその人の障害のことを連想し、深刻な場合には排除して避けることもしかねません。さらに、兄弟姉妹との付き合いにおいて、私たちは主に長年仕えてきた人たちや教会のあらゆる階層の指導者たちを尊敬し、偶像視します。聖書の知識があり、主を最も愛している人たちだと信じているため、私たちは彼らと関わることを好みます。この人たちの他に、私たちは自分と性格や興味や生活習慣が同じ人と交流してつながることを楽しみます。しかし、性格や興味や生活習慣が自分と異なる人とは距離を置き、その人を公平に扱うことができません。日常生活において、私たちは自分の感情や好みに従って他人と接することが多すぎます。このように付き合うことで、私たちは人に束縛と害を与えるだけでなく、人との関係がストレスの元になり、仲良く付き合うことができなくなります。
神は仰せられます。「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」(ヨハネによる福音書13:34–35)。「第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』」(マタイによる福音書22:39)。「他の人たちと仲よく付き合うことについて、その人に地位があろうとなかろうと、またはその人が普通の兄弟姉妹であろうとあらゆる階級の指導者であろうと、兄弟姉妹との接し方の背後にはどのような原則がありますか。不信心者が他の人たちと接するのと同じように、自分の兄弟姉妹と接することはできません。公平かつ理性的に接しなければならないのです。この人と親しくしてあの人とは親しくしない、ということはできません。他の人たちと徒党を組んだり、結託したりすることはできません。気に入らないからといって誰かをいじめ、強い人たちに媚びることはできません。これがこの原則の意味するところです。他の人たちとの接し方について、あなたは原則をもたなければならず、全員と公平に接しなければいけません…… どのようにして公平に扱いますか。誰にも些細な欠陥や欠点があり、ある種の特異性もあります。人はみな独善性や弱点、欠けている部分があります。あなたは愛する心をもって相手を助け、忍耐強く寛容であり、些細なことの一つひとつについて厳しくあたりすぎたり、騒ぎ立てたりしてはいけません……神は一人ひとりをどう扱いますか。霊的背丈が未熟な人、若い人、神を信じるようになってまだ日が浅い人もいれば、本性や本質が悪かったり悪意に満ちていたりする人もいます。それは単に、彼らがいくぶん無知だったり素質を欠いたりしているか、社会によって過度に汚染されているかなのです。彼らはまだ真理の現実に入っていないので、馬鹿げたことをしたり、無知な行動をとったりしないようにするのが容易ではありません。しかし神の視点からは、こうしたことは重要ではありません。神は人の心だけを見ます。人が真理の現実に入ることを決意しているなら、正しい方向に進んでおり、それがその人の目標です。すると神はその人を見守り、待ち、入れるようになる時間と機会を与えます。神はその人を一撃で打ち倒したり、その人が首を出した瞬間に殴りつけたりすることはありません。神はそのように人を扱ったことはありません」(『キリストの言葉の記録』の「真理を得るには、周囲の人や出来事や物事から学ばなければならない」より)
神の御言葉から、神は人を人格や外見や素質、に基づいて扱ったり、地位や身分の高さや低さに基づいて扱ったりはなさらないことがわかります。真理を愛し、真理を追い求める人である限り、神は啓いて導き、神の御心を理解するように導きます。罪を犯す人でも真の悔い改めを行い、再び罪を犯すことを避ける限り、神はお赦しになります。たとえば、主イエスの弟子を例に取りましょう。何人かは漁師で、一人は取税人でしたが、彼らは地位が低くても真理を切望し、主に呼びかけられるのを聞いたとき、すぐにすべてを投げ出して主に従うことができました。これに主はお喜びになり、主イエスは彼らに真理を伝えることに労を惜しまれず、彼らが御心を理解できるように多くのたとえ話を丁寧に語られりました。放縦な女や取税人の頭ザアカイなどのに対しては、主イエスは彼らが進んで悔い改めようとしているのをご覧になったため、彼らの罪を赦し、罪の内容に基づいて扱われることはありませんでした。神が人を扱われる際の態度から、神は常に原則的な仕方で人を扱われることがわかります。それに対して私たちは常に自分の感情で行動し、個人的な好みに基づいて人を扱いますが、これは神の御心と要求に反します。神は私たちが従うべき模範を定め、他人の扱い方の原則を示してくださいました。他人との付き合いにおいて、私たちは自分の好みで行動してはならず、その人が自分の役に立つかどうか、自分が気に入るかどうかや、その人の背景に基づいて扱ってはならないのです。むしろ自分の感情と個人的な好みを捨て去り、一人一人を神の御言葉と真理に従って扱うべきです。神を真剣に信じ、真理を愛している兄弟姉妹なら誰でも、私たちと性格や気質が合おうが合うまいが、地位と権力があろうがなかろうが、たとえ過去にどんな過ちを犯したとしても、常に公平に扱うべきです。差別するのではなく、愛情を持ち、寛容であり、理解を示すべきです。そうして初めて他人と仲良く付き合うことができるからです。
2.誤解や対立が生じたときは、相手の過ちにとらわれず、むしろ自分自身を知ることを学ぶ
「あの人と仲良くするなんて無理だ」「この人と接していても全然楽しくない」-こうした発言からわかるように、私たちは兄弟姉妹との間で誤解や対立が生じたとき、常に相手にとらわれ、すべてその人のせいだと信じこみます。自分の中に存在する問題を省みることはほとんどありません。そして、再び相手と接触したとき、口調が硬くなってぞんざいに振舞い、ついには仲良く付き合うことができなくなります。主イエスは仰せられました。「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう」(ルカによる福音書 6:41-42)神は人の心の奥底を精査し、私たちの心の奥深くに存在する堕落をご存知です。そして、他人との間に対立が生じたときは自分の非を反省し、まず何より自分自身を変え、他人にとらわれないことを学ばなければならない、と神は警告されます。実際のところ、大抵の場合、相手に非があるとは限らず、むしろ私たちがサタンの堕落した性質に生きて、その人に偏見を抱き、そのせいで正常な関係を持てないのです。たとえば、他人に提案をされたり、仕事で欠陥や問題を指摘されたりすると、私たちは傲慢とうぬぼれというサタン的な性質で生きているため、自分の仕事に何の問題もないと信じこみ、自分の考えにこだわって相手の提案を受け入れようとせず、偏見を抱きさえします。また別の例として、他人が私たちの自尊心、地位、金銭といった利益に害を及ぼすことを言ったり行なったりすることがあります。私たちは利己心というサタン的な性質に支配されているため、相手に難癖をつけ、ひどいときには恨むようになりさえします。このようなとき、もし相手が間違っていると信じてその人にだけとらわれ、その人を非難しながら自分自身の堕落を反省しないならば、その人への反感と偏見はますます根強くなり、お互いの誤解はますます深まり、正常な関係を築く術はまったくありません。しかし、自分自身を知ることに専念し、自分が露呈した堕落を反省し、神の御前に出て教訓を学び、相手を正しく扱うならば、仲良く付き合うことができます。
この件について話していると、最近という姉妹との付き合いで経験したことを思い出します。姉妹は思ったことをあけすけに話す人です。同労者会議で、私は兄弟姉妹と教会の仕事に関する企画について話し合っていたとき、ある提案をしました。その後、姉妹がその話し合いに触れて、私の提案について問題点をいくつか指摘しました。私は非常に腹を立て、「私は教会で長年働いてきたのに、あなたの方がよくわかっていて経験があるのか。すごく傲慢だ。私の提案どおりにやればいいんだ」と思いました。そこで私は自分の見解について解説し、姉妹は自分の取り上げた点を私が受け入れたがらないことを察して何も言わなくなりました。姉妹はそれからも私に多くの提案をしましたが、いまだに私は彼女があまりにも傲慢で独善的で、いつも人の仕事にけちをつけようとしているという考えでした。彼女への偏見はますます根強くなり、彼女の提案を何度も拒否しました。ついには、彼女は私に束縛されたと感じ、敢えて私に提案しようとしなくなりました。やがて私は自分の霊が闇に満ちているのを感じ、祈っても神の存在が感じられませんでした。苦痛の中、神に祈り求め、後で神の御言葉を読みました。「独善的になってはならない。他の人達の長所を用いて自分の弱さを正し、他の人達がどう神の言葉によって生きているかを良く見て、その人達の生き方と言動が学ぶに値するものであるかどうかを見極めなさい。他の人達が自分より劣ると考えるなら、あなたは独善的であり、慢心しており、誰のためにもなっていない」(『言葉は肉において現れる』の「第二十二章」より)。 神の御言葉の啓示を通して、私は姉妹と接していた時のことを振り返りました。私は彼女の提案をこれまで受け入れたことがなく、それどころかいつも自分が正しいと考え、彼女の方こそあまりにも傲慢で、いつもありもしない粗を探し、意図的に私の仕事の欠点を見つけようとしていると思っていました。しかし注意して考えてみると、「どんな黄金も純粋にならず、どんな人間も完璧になれない」ことに気づきました。どんなに良い人でも、間違いなく欠点や落ち度があります。私は長い間教会で働いて、かなりの経験を積んでいましたが、だからといって非の打ち所がないわけではなく、配慮が足りない部分も当然いくつかありました。さらに、どの兄弟姉妹にもその人なりの長所があり、彼らの提案には常に何らかの根拠があります。神は私たちが互いに欠けている部分を補い、共に教会の働きを守ることができることを願って、私たちが共に働くように采配しておられるのです。しかし私は一貫して自分の考えにこだわり、姉妹の提案に耳を傾けませんでした。とても傲慢でうぬぼれていたのです。このように振舞うことで、私は仕事がうまくできなかったばかりか、姉妹に束縛を感じさせました。このことをすべて省みたとき、私は非常に罪悪感を抱き、自分を責め、姉妹への偏見が消えていきました。その後、姉妹の提案を真剣に検討し、それらのほとんどが実際に正しく、私が考慮しなかったことを提案してくれていることに気づきました。それで私は率先して彼女と腹を割って話し合い、謝りました。共に交わった後、姉妹は解放されたと感じ、私はとても心が安らぎ、落ち着きました。この経験を通じて、他人との間に摩擦が生じたときはいつも自分自身を省みて知ろうとすることがとても大切だと悟りました。なぜなら、そのとき初めて私たちは自分のうちに存在する堕落と欠点をはっきり見極めることができ、堕落した性質で生きることをやめ、神の御言葉に従って実践し、正常な人間性を生きることができるからです。姉妹との一件以来、私は他人との間に対立が生じたときはいつもまず自分を静め、神に祈り求め、神の御言葉を通して自分自身を省みて知ることに専念し、自分がどの堕落した性質を露呈しているか、自分の問題をどのように解決すべきか考えています。そうすると、意識しなくても相手との関係は徐々に正常に戻り、仲良く付き合うことができます。こうして私のすべてがよりはるかに穏やかで幸せになります。
3.他人に傷つけられたときは、もっと寛容と赦しを示すべき
日常生活において、私たちは他人に傷つけるようなことをされるとその人に腹を立てがちです。このように振舞うことで、兄弟姉妹と正常な関係を持てなくなるだけでなく、家族や親戚と仲良く付き合うことさえできなくなります。ではクリスチャンとして、誰かに本当に傷つくようなことをされたり、かなりの苦痛を与える発言や、私たちの利益に害を及ぼす発言をされたと仮定しましょう。そのとき相手を主の御心に沿って扱うにはどうすべきなのでしょうか。
主イエスは、「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう」(マタイによる福音書 6:14)神は言われます。「もし誰かと性格が合わず、その人をあまり好きでなかったとしても、その人と一緒に働くときは公平な態度を取るでしょうし、本分を果たす中で自分の鬱憤を晴らしたり、本分をおろそかにしたり、不満をぶつけて神の家の利益を害したりはしないでしょう。あなたは原則に従って物事を行うことができますし、そのため基本的な神への畏敬を持っていることになります。もう少し上級者なら、誰かに落度や欠点がいくつかあって、場合によってはその人に気分を害されたり自分の利益を損なわれたりしても、なおその人を助けるだけの能力があります。それは、あなたの中に愛があること、あなたが人間性、真理の現実、そして神への畏敬を有していることを意味します。……神がそのような人たちの結末を決めておらず、彼らを追放しておらず、罰しておらず、彼らが救われつつあるのであれば、あなたは愛を持ってその人たちを忍耐強く助けるべきであって、彼らの最後を決めたいと願ったり、人間的な手段を用いて弾圧したり罰したりするべきではありません。その人たちを取り扱って刈り込んだり、心を開いて心からの交わりに努め、助けてあげるのもよいでしょう。でもその人たちを罰し、排斥し、陥れようと思うなら、問題に陥ることになります。そんなことが真理にかなっているでしょうか? そんな考えを持つのは、感情的になっているからです。そのような考えはサタンから来るものであり、人間の憤りのほか嫉妬や嫌悪からも生まれます。そのような行為は真理に反します。それはあなたに報復をもたらすものであり、神の旨に沿ったものではありません」(『信仰において正しい軌道へ乗るのに必要な五つの状態』より引用)。
人類を救うため、神は地上に来られる際にとてつもない屈辱に耐えられ、私たちを潤し、牧養するために御言葉を表されました。私たちが堕落した性質に生き、神に抵抗し、逆らうとき、神は御言葉を用いて私たちを啓き、導き、私たちが神のご厚意を御言葉から理解し、やがて罪を悔い改めて神に告白することができるようにしてくださります。私たち人類が、神を拒んで中傷し、非難しても、神は私たちのことを気にかけてくださいます。神は非常に無私無欲であり、神の人類への愛はとても大きいです。しかし私たちはサタンによって非常に根深く堕落しており、傲慢でうぬぼれ、利己的で卑劣で、よこしまで狡猾といったサタン的な堕落した性質に満ちており、問題に遭遇するとしばしば他人の粗を探し、一歩も譲りません。よく自分の利益を求めて、周りの人を傷つけることがあり、誰にも真の寛容と忍耐と赦しを示しません。そのため他人との間でしばしば対立や誤解が生じ、正常な関係を保てなくなります。
したがって、他人との付き合いにおいて、私たちはキリストに倣おうとすべきです。相手が良い人間性を持ち、神を心から信じる兄弟や姉妹である限り正当に扱うべきです。たとえ相手に傷つけられても仕返しをせず、理解、寛容、忍耐、赦しを示さなければなりません。このように行動することで、どのような人とも仲良く付き合うことができます。さらに、他人が困難を抱えているとき、私たちはその人が過去にどんな過ちを犯したとしても騒ぎ立てず、助けて支えるべきです。これが実現できれば、良い人間性を持ち心優しい人なら誰でもいつか自分の過ちに気づき、過去にしたことを悔いて、私たちが人間らしく生きている姿を立派に思ってくれるでしょう。
あなたも兄弟姉妹と正常な関係を築き、仲良く付き合たいですか。では、上記の三つの原則を日常生活に導入し、実践して入っていけば、想像できないほどの恩恵を享受できると私は信じています。
神の啓きと導きに感謝あれ。アーメン。