イエスキリストが受肉して再臨する意味は何か
他国でアルバイトをするとき、彼女は数年ぶりの同郷に出会って、そして主が再来されたお知らせを知りました。主がすでに受肉して戻られたと聞いたとき、彼女の観念に衝撃を与えました。尋ね求めて考察した後、彼女は神様の受肉の意義を理解しました。
寄稿家:ウェイウェイ(アメリカ)
懐かしいふるさとの友人からの驚くべきニュース
私の名前はウェイウェイ。2016年の終わり頃、見知らぬ国アメリカに、働くためにやってきました。クリスチャンである私は、自然に教会が唯一くつろげる場所になりました。ところが、牧師の説教は神学論を説くか、そうでなければ飲食や快楽にふける話ばかりで、一定の献金額を指定までするような有り様で、私は失望しました。私は自分のいのちが養われているようには感じられず、そのような牧師のやり方を軽蔑するようになり、徐々に教会に行かなくなりました。ジンイーとばったり再会した私は、出身地が同じであるジャン・リン姉もその街に住んでいて彼女の家で集会をしていることを知りました。それを知って私はとても嬉しく感じました。そしてその後、ジンイーと一緒にジャン・リンの家の集会に出席するようになりました。
ある集会で、ジャン・リンが私にこう言いました。「ねえ、ウェイウェイ、主イエス様は既に受肉されて再び来られていて、ご自身の御言葉を表わされ、裁きの働きを神の家から始められているのを知ってる?」
私は彼女の言葉に困惑し、こう言いました。「主イエス様がもう受肉されて再臨されているの? そんな筈ないわ。聖書は主の再臨をはっきりと預言しているのよ。『ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう』(使徒行伝 1:11)。主イエス様が甦られた後、その卓越した霊が白い雲に乗って離れて行かれたわ。だから終わりの日に主が戻られる時は間違いなくご自身の霊の体で来られるのよ。どうして再び肉となられることなどあるの?」
ジンイーは微笑んで言いました。「ウェイウェイ、神様が語られた御言葉を読むわね。『「不可能」だと思うことについての意見を捨て去りなさい。人が何かを不可能だと思えば思うほど、それは実現しやすくなる。神の知恵は天より高く、神の思いは人の思いより高く、神の働きは人の考えや観念をはるかに超越するからである。何かが不可能であればあるほど、そこには探し求めることのできる真理がある。人の観念と想像を超えるものであればあるほど、そこには神の心意がある』。神様は全能で賢く、そのお考えは人の考えを遥かに超えているわ。私たちはサタンに堕落されられていて、神様に対する理解は観念や想像に満ちているし、霊的世界にまっすぐ入っていく能力もないのに、神様のなさることをあれこれと決めつけることなどできるはずはないわよね。それに、聖書に書かれている預言には神様の知恵と奥義があって、それは私たちが想像するような単純なものではないし、文字通りに成就されるはずなどないのよ。例えば、旧約聖書にはメシアの再臨に関して沢山の預言が書かれているわよね。それを読んだ人たちは勝手に想像を膨らませるわ。「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである」(イザヤ書 9:6-7)。この御言葉を読んだ人たちは、地を治めに来るはずのメシアは天におられる父の子で、その方は城でお生まれになり、この世のものを超越して秀でており、非常に聡明であるはずと考えて、全く事実と違う想像をめぐらすのよ。主イエス様はごく普通の体でかいばおけにお生まれになった。だから当時の人々は彼を受け入れず、彼を罪に定めて拒否し、十字架にかけたわ。結局彼らの国は征服されてしまうことになったわ。聖書を表面的に説明しただけだとどのように信仰的過ちを犯してしまうか、ここから分かるんじゃない? 主が戻ってこられた時の働きって、こんな限られた理解で説明できるようなものかしら。だから、想像力や観念で神様の働きを制限などせずに、求め探る心を持って、御言葉の本当の意味を理解できるように神様に啓いて頂かなくてはならないのよ。
主が戻られる時は肉となられると聖書は預言しているか
ジンイーが話すのを聞いて、彼女の話は理にかなっていると私は思いました。主の再臨は重大なことで、よく調べなければなりません。「主が肉となって再臨されるという今の話、聖書的な根拠はあるの?」私はジンイーに聞きました。
ジャン・リンは微笑みながら言いました。「主が肉となって来られることを預言している聖書の箇所は沢山あるわ。『あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである』(ルカによる福音書12:40)。『いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない』(ルカによる福音書 17:24-25)。『夜中に、「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」と呼ぶ声がした』(マタイによる福音書 25:6)。ここに書かれている『人の子』や『花婿』はどれも受肉された神様のことなの。『人の子』は、ひとりの人から生まれた人の子を指していて、その方は普通の人間性を持っておられるの。『霊』を指すのであれば、『人の子』とは言わないわ。ヤーウェ神は霊だから、『人の子』とは呼ばれないようにね。天使たちも霊の存在だから、『人の子』とは呼ばれないわ。人の姿を持ちながら霊の存在であるならば『人の子』とは呼ばれない。肉となられた主イエス様が人の子と呼ばれ、キリストと呼ばれるのは、このお方が受肉された神の霊であられ、普通の人となられて人の間に住まれたからなの。人々が肉となられた神があまりに普通の人間だったために主イエス様を神と信じず、大工の息子に過ぎないと考えたの。だから彼を嘲り中傷し、罪に定めて拒絶し、十字架にまでかけたのよ。『人の子が来る』と主イエス様が言われたのは、終わりの日に主が肉となって戻って来られることを意味しているの。卓越した霊が白い雲に乗って降りて来られるなら、全ての人々がひざまずいてそのお方を崇めるわ。その時になっても拒否したり非難したりする者はいないわ。そうなれば、『しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない』という主の預言は成就しないわ」。
主が戻られる時に肉となられるのはなぜか
ジャン・リンの話を聞きながら、彼女が示してくれた御言葉を読み、私は彼女の言う通りだと思いました。ジャン・リンは言いました。「終わりの日に、人間の必要に応じて神様は肉となられて御言葉を示し、裁きの働きを神の家から始めるの。それによって人間の堕落と反抗を露わにして神に逆らう人間のサタン的な本質を裁き、最終的に人間を清め、救い、完全にされるのよ。もし神様が肉として来られなかったなら、そのような結果は望めないわ。神様の言葉の別の一節を見てみましょう」。
ジャン・リンに渡された神様の御言葉の本を開き、読みました。「神による人の救いは、霊の手段や身分を直接用いて行なわれるのではない。と言うのも、神の霊は人が触れることも見ることもできないものであり、人が近づくこともできないからである。もしも神が霊のやり方で直接人を救おうとするなら、人は神の救いを受け取ることができないだろう。そして、もしも神が被造物である人の容姿をまとわないなら、人はこの救いを受け取ることができないだろう。なぜなら、ヤーウェの雲に近づける者が誰もいなかったように、人には神に近づく術がないからである。被造物たる人間になることでのみ、つまり自身がなろうとしている肉の身体にその言葉を入れることでのみ、神は自身に付き従うすべての人に直接言葉を働かせることができる。その時初めて、人は神の言葉を自ら見聞きし、そしてさらに、神の言葉を自分のものにすることができ、それによって完全に救われるようになるのである。もしも神が肉とならなければ、血と肉からできた人は誰もそうした偉大な救いを受けることができないし、誰一人救われることもないだろう。神の霊が人類のあいだで直接働いたなら、人類は残らず打ち倒されてしまうか、神と接する術がないまま、完全にサタンの虜とされるだろう」。「人間はサタンのせいで堕落したが、神の被造物のうちで最高のものだ。そこで、人間には神による救いが必要だ。神の救いの対象はサタンではなく人間であり、救われるべきものは人間の肉、人間の魂であり、悪魔ではない。サタンは神が滅ぼす対象であり、人間は神に救われる者である。人間の肉はサタンによって堕落させられた。だから、まず人間の肉が救われなければならない。人間の肉は極めて深く堕落しており、神に敵対するものになっている。そして、公然と神に敵対し、神の存在を否定しさえする。この堕落した肉は、まったく手に負えない。堕落した肉の性質以上に扱いにくく、変えにくいものはない。サタンは人間の体に入って混乱させ、人間の体を使って神の働きを妨害し、神の計画を妨げる。それゆえ人間はサタンとなり、神の敵になった。人間が救われるには、まず征服されなければならない。このため、神は挑戦に立ち上がり受肉した。働きを行い、サタンと戦うためである。神の目的は堕落した人類の救いと、自分に抵抗するサタンを打ち破り、滅ぼすことである。神は人間を征服する働きによってサタンを破り、同時に堕落した人間を救う。したがって、それは二つの目的を一度に果たす働きである」。
ジャン・リンは言いました。「神様が肉となられたのは、唯一、堕落した私たちがそれを必要としていたからだということが神様の御言葉から分かるわ。主イエス様によって贖われ、罪赦されているけれども、罪の本質は残っていて深く根付き、自力で罪に勝利して肉から解放されることはできないのよ。私たちの肉はサタンによって堕落させられていて、サタンは私たちの肉を利用して神様の働きを妨害し破壊するの。だから私たちもサタンと同じで神様に敵対してしまうのよ。もし神様が霊として直接来られたなら、私たちは皆汚れと堕落ゆえに打たれて死んでしまうでしょう。ひとりとして生き残るものはなく、救われる者は無論いないでしょう。旧約聖書にあるように、ダビデがイスラエル人をバアレ・ユダから導き出して神様の契約の箱を持ち帰った時、牛の足下がふらついた為にウザはとっさに手を伸ばして箱に触れ、神の霊により打たれて死んだわ。当時「契約の箱」は神を現わしていたの。神は聖なるお方で、汚れた人間が触れることなどできるはずがなかった。ウザは善良な心の持ち主だったけれど、神様を怒らせてしまい打たれて死んだの。一方新約聖書では、結婚している女が姦淫の罪で捕えられて主の前に連れて来られた時、主はその女を罪に定めなかったばかりか、女を赦し、罪を告白して悔い改め、再び罪を犯すことのないようにと言ったわ。これらの二つの出来事から、律法の時代に神様は霊として働かれ、霊は汚れた人間が存在することを許すことも神様を怒らせることを許すこともなかったことが分かるわ。神様を怒らせることは死を意味していたの。恵みの時代になると、神様は肉となって別の働き方をされたわ。人々に対してそれまでとは違ったアプローチの仕方で、実際の状況や現実的な問題に応じて働きかけることができたの。つまり、肉となられた神様は人の弱さへの理解を示すことができ、それによって人は悔い改めの機会を得たの。それだから、肉となられた神様の働きは、堕落した人間に対して霊としての直接的な働きに比べてずっと有益なものなの。それに、私たちの罪も律法の時代末期の人々の罪を越えてしまい、ソドムの時代の人々の罪をも越えてしまったわ。人間のふしだらさと邪悪さ、反抗は頂点に達してしまった。主にある兄弟姉妹である私たち自身を考えてみれば分かるように、たとえ主イエス様によって贖われていても、罪の本質は根深く残っているので、日中罪を犯しては夜悔い改めるという生活をしているわ。謙虚で寛容に見える人もいるけれど、実際には互いに企み、策略を練り、嫉妬や争いを引き起こし、互いの裏をかきあい、だまし合うの。否定的で霊的に弱い兄弟姉妹もいるわ。そのような人たちの信仰と思いやりは徐々に薄れてきているの。考えてみて。それほど人間が堕落してしまっていて、もし神様が終わりの日に霊によって直接裁きと清めの働きをされたなら、私たちはとっくに滅ぼされているんじゃない? だから、神様はもう一度肉となって来られ、私たち堕落した人間の必要に応じて働かれ、堕落の程度に応じて働かれるのよ。というのは、神様が肉となって働かれることによってだけ、私たちの弱さに対して理解を示すことができ、悔い改めの機会を与えて完全に救われる機会を与えられるから」。
ジャン・リンがこのように話すのを聞いて、私はとても感動しました。神の働きのひとつひとつに神の愛があるのです。私は言いました。「神様が肉となって働かれるとき、霊として直接働かれるよりずっと人に益をもたらすということが分かったわ。あまりに堕落しているからと神様の霊に打たれて死んでしまうことはないのね」。
そう言った途端、ジンイーは嬉しそうにジャン・リンに言いました。「ウェイウェイが理解したわ。神様に感謝します!」
受肉のもうひとつの意味
ジャン・リンは嬉しそうにこうも言いました。「そうよ。ウェイウェイ、神様が肉となられた意味はもうひとつあるの。神様の別の言葉を読んでみましょう」。
私は次の言葉を読みました。「人間の堕落した性質と反抗心と抵抗は、人間がキリストを見るときに暴露され、そのときに暴露される反抗心や抵抗は他のどの時よりも絶対的に完全に暴露される。それは、キリストは人の子、すなわち普通の人間性をもつ人の子であるため、人間はキリストに栄誉を与えることも尊敬することもないからである。神が肉において生きているために、人間の反抗心は徹底的に、詳細まで鮮明に光にさらけ出される。それで、キリストの到来は人類の反抗心をすべて明るみに出し、人類の本性を際立たせた、とわたしは言うのである。これは『山から虎をおびき出す』、『洞窟から狼をおびき出す』と呼ばれる」。
この言葉を思い巡らしながら、私は静かに言いました。「『山から虎をおびき出す』、『洞窟から狼をおびき出す』?」
ジャン・リンは笑いながら言いました。「良く分かる表現ね。神様ご自身が普通の人間の体で地上に来られたの。私たちが神様を知らないばかりに、多くの観念や勝手な想像、反抗と反逆を露わにするの。もし終わりの日に神様がこの時代を終わらせるために偉大で人間の理解を超えた霊として来られるならば、全ての人は倒れ、地に伏すでしょう。その時に神様に反抗したり反逆したりする人はいないでしょうから。善悪はどう区別できるのかしら。だから、もし神様が霊を用いて働かれるならば、人間の観念、反抗心、反逆は露わにされないのよ。神様ご自身が普通の人間の体をとって地上に来られ、人間の中にある観念、反抗心、反逆を露わにし、それによって裁き罰することによってだけ、神様は人々を納得させることができるの。神様に従い、受け入れる人は救いを得、反抗して反逆する人は罰せられるの。肉となられた神様が普通で現実的で、人間の観念と一致しないからこそ、人間の反抗心や反逆が露わにされるの。そして神様は事実を把握され、善悪を区別され、最終的にご自身の目的である、一人ひとりを分類するという作業をされ、善に報いて悪を罰するの。だから、私たちはこれが神様の働きの知恵であり、義であるということが分かるわ。神様が肉となられてご自身の働きを直接行うことによってのみ、人々を完全に露わにすることができ、人を征服するという目的を達成できるのよ。受肉された神の働きは、終わりの日の裁きの働きに対して、霊の働き以上の益をもたらすの」。
その時私の目と心が開かれました。私は喜びながら言いました。「やっと分かったわ! 神様が肉となって働かれたのは、私たち堕落した人間の必要のためで、神様の受肉があって初めて、人間の反抗心や反逆が露わにされ、善に報いて悪を罰するという目的が達成されるのね。神様に感謝します。すべて神様だけが現わすことのできる奥義ね。神様が本当に戻って来られたと信じます。ああ、こんなに素晴らしいことを何一つ知らなかったなんて。何て未熟な信仰だったのかしら……」
ジャン・リンは言いました。「感謝なことに、神様の働きを受け入れるのにまだ遅くないわ」。
私は喜びのうちにうなずきました。
しばらくしてから、集会に出席して福音のビデオを観るうちに、私は神様の終わりの日の働きを完全に確信し、主の現われを迎えるようになりました。私の心は喜びに満たされました。全能神教会では兄弟姉妹が皆真理を求めて神様の言葉によって生活しており、この大家族の中で、私は神様の愛と家族に属することの温かさを理解するようになりました。本当に感謝しています!