聖書の言葉
主イエスのこの言葉は私たちに神様を認識し、主の再来を迎える現実的な道を示し、それは神様の声を聞き分けることです。主イエスが来られて働きをなさる時、ペテロ、ヨハネ、サマリアの女とナタナエルなどのように、主イエスの語った言葉、主イエスの行いを通して、主イエスが権威と力を持っているそのお方であり、主イエスが預言の中に預言された来たるべきメシアであることがわかり、それによって主に付き従い、主イエスの救いを得られたのです。しかし、それら宗教パリサイ人、律法学者は主イエスの権威と力を持っている言葉を聞いたが、彼らは自分の観念と想像によって神様を決めつけ、メシアと呼ばない限り神様ではないと思い、また主イエスに抵抗し、主イエスを十字架につけ、神様の性質を侵害し、イスラエル破滅へとつながりました。この歴史の教訓は私たちに、主の再来を迎える肝心なところは、神様の声に耳を傾けることを重視すべきであることを教えています。聖書にはこう書かれています。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう。」(ヨハネの黙示録2:7)「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録3:20)このことからわかるのは、終わりの日に主が再来され言葉を語って私たちに戸を叩くのです。もし私たちは聖霊が諸教会に告げる言葉を尋ね求め、神様の声を聞くことができれば、神様の出現を迎え、子羊の足跡をたどったのです。まさに神様が言われた通りです。「神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは『神は真理であり、道であり、いのちなのです』という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちだろうか。」