聖書の言葉
主イエスは彼を愛する人はきっと彼の道を守り、神様の道を歩む人は神様の国に連れて行かれると言われました。いったい何か神様の道を歩むことなのか。多くの人はこう思われています、神様の道を歩むことは、毎日たゆまず祈り、或いは苦労して働き、主の福音を伝えることです。だが聖書にこう言われています:「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音書 7:22-23)なぜ主の御名によって預言し、多くの力あるわざを行った人は、主イエスに知らないと言われたのか。このことから、苦労して働き福音を伝えるだけで、苦労して働くことを天国への祝福と引き換えようとすることは、神様の道を歩むことではなく、それなら何か真の神様の道を歩むことなのでしょうか。
ある日、一段落の言葉を読みました:「何時の時代においても、神はこの世で業を行う時、真理を伝える言葉を人間に与える。こうした真理は、人間が守るべき道、通るべき道、神を畏れ、悪を避けられるようにする道、生活や人生の旅路の中で実践し、そして遵守すべき道として機能する。これが、神がこれらの言葉を与える理由である。神に由来するこれらの言葉は、人間が守るべきものであり、人間にとって、それを守ることはいのちを授かることを意味する。人間がそうした言葉を守らず、実行せず、人生を神の言葉通りに生きなかった場合、その者は真理を実行していないことになる。そして、人間が真理を実行しなかった場合、人間は神を畏れず、悪を避けておらず、神に満足してもらうことは出来ない。ある者が神に満足してもらえない場合、その者は神の賞賛を得られないので、その者には良い結末が無い。」この言葉から神様の道を歩むのは最も重要なのは神様の現実の言葉と要求を実行するのが最も根本な原則だと認識できました。神様の道を歩む人は、神様がどのように語り働きか、彼は従順し従い、神様の現実の要求を実行し、神様の委託を受け、神様を証しし、再び神様を逆らい抵抗せず、このような人こそ神様に認められる人です。アブラハムのように、彼は神様の言葉を聞き従い、心を込めて自分のお気に入りの息子を神様に捧げ、彼が完全に従順したことで、神様がその子孫が大国になると祝福しました。
またヨブのように、彼は常に神様を畏れ敬い悪から遠ざけ、財産と子ども達を失った試練の中で、むしろ自分を呪い、神様に対して不平を言わず、ヤーウェの名を讃え続けたから、神様の目の中には完全な人と見なします。またペテロのように、主イエスの言葉には権威と力があり、いのちの道だと分かったら、彼は全てを捨てて一生主イエスに従い、真理を渇仰し追い求め、主の委託を受け入れ、主の御心と要求に完全に従って教会を牧養し、最終的に死ぬまで従順し、神様へ至上の愛に達しました……彼たちはみな神様を畏れ敬い従順な人で、このような人こそ真の神様の道を歩む人です。
もし苦労して働くことは神様の道に歩むことだとしたら、パリサイ人は海と陸とを巡り歩き福音を伝え、苦労して働き、結局主イエスに罪定め呪われたのはなぜでしょうか。彼らは神様を信じているが神様の道を歩まないため、主イエスが新しい働きをする時に、彼らは受け入れないのみならず、ユダヤの人々を連れて気が狂ったように主イエスを抵抗し罪定め、偽証して主イエスを陥れるさえしました、彼らの行ったすべては主の道に背き、主を敵となり、これら見た目でいくら多くの苦しみを受けて働いても、神様の現実の言葉と働きに従順しなければ、神様の道を歩むことだと言えません。なので、我々は神様の道に歩みたいなら、神様の現実の言葉と働きを追い求め、神様の委託を受け入れ、神様の言葉を実行しなければなりません。このように我々は神様の承認を得る機会があり、神様の国に連れて行ってもらうことができます。