クリスマスの起源
毎年クリスマスが近くと、街では様々なクリスマスプレゼント用の商品が店先に並び、サンタクロースやクリスマスツリーが飾られます。木々や建物にはカラフルなイルミネーションが光り、街中がランタンや装飾で華やかに飾られ、誰もがクリスマスを楽しみにしてわくわくします。キリスト教にとってクリスマスは特別な休暇です。クリスマスの数ヶ月前から、あちこちの教会はクリスマスの準備に追われます。クリスマス当時、教会には人が溢れ、兄弟姉妹たちはみなお祝いし、クリスマスの料理を食べ、プログラムに参加したり、主イエス様を礼拝したりします。みんなの笑顔がはじけます。けれどそのように集まって主イエス様の誕生をお祝いする時、私たちはクリスマスの意味を理解しているでしょうか。おそらく兄弟姉妹は「主イエス様は私たち人間を贖うために十字架にかけられました。だから、主イエス様の誕生をお祝いするために、クリスチャンがクリスマスを制定したいのです。主イエス様がお生まれになった日は明確に聖書に記載がありませんが、イエス・キリストの福音が広まるにつれて、クリスマスは徐々に世界的な祝日として浸透していったのです。」と言うでしょう。そのことは皆知っているでしょう。けれども主イエス様の誕生に隠されている神様の愛と神様の御心を知っているでしょうか。主の御心に沿うクリスマスの理解とは、どのようなものでしょうか。
神の愛と人類の救いのために主イエス様はお生まれになった
初めに、ヤーウェは霊として人の間で働かれ、モーセを通してご自身の律法と命令を定め、人が地上でどう生きるべきかを導かれました。何が善で何か悪か、どう神様を礼拝すべきかなどを教えられました。けれども律法の時代が終わる頃、人間は益々サタンに堕落させられ、律法を守ることができず、自らの罪を贖ういけにえは、もはや尽きてしまったのです。律法により、いつ罪に定められ死刑に処せられるか分からない危険にさらされました。神は自らの手で作られた人間がそのように破壊されるのは見るに耐えなかったので。人間が生き続けることができるようにと、神様は天国から降ってこられ、主イエスキリストとして受肉され、地上に現れて働きをされ、「悔い改めよ、天国は近づいた」。(マタイによる福音書 4:17)の道を現わされました。そして人々に寛容で忍耐深くあるように、敵を愛するように教えられ、7を70倍するまで赦すように教えられました。主イエス様は病人を癒やされ、悪霊を追い出し、多くのしるしや不思議な業を行い、最終的に十字架にかけられて人類を罪から贖われたのです。私たちが主イエス様を救い主として受け入れて心から主に祈り、罪を告白して悔い改めるなら、私たちの罪は赦され、平安と喜びを享受できます。それは主による喜びと豊かな恵みなのです。主イエス様が生まれて神様が直接受肉されて贖いの業をなされたからこそ、人類は罪の宣告を逃れることができ、律法の足かせを外すことができたと言えるのです。それによって、人間は罪に定められることも死の宣告を受けることもなくなったのです。主イエス様が生まれてくださったから、主に従うものは本当の平和と喜びを享受することができるのです。それ以上に、主イエス様が生まれてくださり、神様の霊が通常の体となられて私たちと同じ言葉を語られたので、主の言葉から人に対する神様の御心と要求をより明確に理解することができ、私たちは更に新しく、より霊的に成長して実践をすることができ、神様とより近い関係になれるのです。主イエス様が地上に来られて真理を現わし、贖いの業を完成されたことの背景にあるものは、人間を救おうとする神様のなみなみならぬ努力があったのです。それは、私たち堕落した人間に対する神様の愛と憐れみなのです。
主イエス様の御心、そしてと私たちに求められること
主イエス様が贖いの業を完成され、甦られて天に昇られたけれども、イエス様の誕生を記念して多くの人々はクリスマスになるとパーティーを開き、様々な行事で主イエス様の誕生をお祝いするのです。けれども、私たちはクリスマスの意味と、主イエス様の御心や私たちにイエス様が求めておられることを理解しているでしょうか。神様に満足していただき、称賛していただくには、私たちは何をすべきなのでしょうか。
主イエス様は言われました。「あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。…しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。」(ヨハネによる福音書 4:21、23)主イエス様の言葉から、イエス様は私たちが形にばかりこだわったり行事に参加したりするばかりでなく、霊と誠真をもって神様を礼拝することを望んでおられることが分かります。昔、パリサイ人や祭司長、律法学者たちは神殿での様々な儀式や規則ばかりにこだわっていました。彼らは毎日神様にいけにえを捧げましたが、神様の言葉を実践することはほとんどなく、ヤーウェの命令に従うこともなく、神様からの命令を捨てて人間的な伝統にのみ従ったのです。そして最終的に、彼らは神様からの称賛を得なかったばかりか、主イエス様に嫌われ、呪われたのです。現代の教会が大がかりなクリスマスのお祝いをしても、それは一時のことに過ぎません。人々があつまって喜び、幸せを感じても、心から主を礼拝しているのではなく、クリスマスを機会として神様の御心を理解したり認識を得たりしているのではありません。そうであれば、主イエス様から認めていただくことはできないのです。事実、主イエス様が正式にその業を始められた時から贖いの業を完了された時までの間に、主イエス様は多くの真理を現わされ、多くの要求を提示されました。私たちがみな主の御言葉を実践することに重きをおいていつでもどこでも、どんなことがあっても、誰に対しても主の教えを実践することが、主の望まれることであり、御心なのです。これが私たちに対して主が求められることで、神様を信じる私たちが持つべき、実践の原則の最も基礎となるものなのです。主イエス様が次のように言われた通りです。「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。」(ヨハネによる福音書 8:31)「あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」(ヨハネによる福音書 15:14)このように、私たちの生活や周りの人々に対する接し方において、主の御言葉に則して実践することが極め重要であることが分かります。というのは、それは心から神様を信じて礼拝する者がまず達成しなければならないことだからです。
私たちは真に主を礼拝しているか
多くの兄弟姉妹たちが、クリスマスには教会に集い、主イエス様の誕生をお祝いし、祈り、聖書を読み、讃美します。けれどもクリスマス以外の時となると、私たちは自分たちは日々の仕事や多くの人々とのやりとりに明け暮れます。主の前に静まって祈り、主の御言葉を読んでその御心を求めることは滅多にありません。集会に頻繁に出席する兄弟姉妹はいますが、主の言葉を実生活で実践することはほとんどなく、相変わらず罪の生活を送り、罪はどんどん深まっていくのです。例えば、主イエス様は私たちが謙虚で穏やかでいることを求めますが、同僚や教会の兄弟姉妹たちと一緒に働きをする時には、私たちは自分の傲慢な性質に支配され、自分の見方や考えは完璧だとして自分を守り、周りの人達と穏やかに進めることができません。主イエス様は、私たちが周りの人々に対して赦すことを学び、自分を愛するように他の人をも愛すことを求めておられます。けれども周りの人々があなた利益を侵害するようなことがあれば、不当に扱われたと感じてサタンの毒の性質による生き方になってしまい、人を裁いたり非難したりしてしまいます。主イエス様は、私たちが世の人々から自分を切り離すことを求めておられますが、私たちはこの世の名誉、地位、肉体の楽しみを追い、この世の悪に倣い、罪の中に生きて主から益々離れていくのです。これは私たちが主の要求に沿うことのできない僅かな例にすぎません。私たちは宗教儀式に重きをおき、主の救いに感謝することや特別な祝日に主を讃美することに重点をおきますが、主の道に従わずに罪の生活をしがちです。主イエス様を礼拝するとはこのようなことでしょうか。イエス様は本当にそのような私たちを称賛してくださるでしょうか。子育てする親を例にとってみます。もし子供に分別があって親思いであれば、親が何を喜んで何を喜ばないかをわきまえ、両親に対して何かをする時には、親が喜ぶものが分かるのです。けれども、両親の誕生日には大げさなお祝いをして「パパ、ママ、愛してるよ」と言うだけで、本当に助けが必要な時には自分達のことで手一杯で親にすべきことができないのであれば、本当に親孝行だと言えるでしょうか。
神の御心旨に沿い、神の称賛を得るにはどうしたらよいか
もし私たちが真に神様を礼拝し、神の称賛を得ようと思うならば、神様の御言葉に沿って実践し、神様をあがめる心を持ち、すべての事において主の道に従うことに重点を置き、主の言葉を第1とし、私たちの生き方が神様に対する証しとなるようにし、神様に栄光を帰すようにすることが重要です。もちろん、兄弟姉妹の一部の人達は、クリスマスに集って賛美歌を歌い主を讃美し、主の言葉を人生でどう経験してどう実践したかを分かち合い、霊的な生活でどう問題解決するかを互いに支え合い助け合い、神様に更に近づこうとします。これも神様の御心に沿っています。そしてクリスマスが近づくと、西欧諸国では迫害されているクリスチャンやホームレスの人達への慈善運動もされます。そのような場で、ホームレスの人達が集まって保護施設を探したり、迫害されているクリスチャンが世界のあちこちから集まって互いに経験を語り合ったり、厳しい寒さの中でも神様の暖かさを感じることができたりします。このような事も神様は覚えてくださいます。要するに、クリスマス休暇自体が重要なのでも、行事自体が重要なのでもないのです。重要なのは、主イエス様の御言葉であり、主が私たちに求められていることなのです。神様を畏れる心を持ち、すべてのことにおいて主の御心を求め、主の御言葉を実践して主の要求に応えることで満足していただく—これが最も重要なことなのです。このように実践して初めて、私たちは真に主イエス様を礼拝し、主イエス様から称賛していただけるのです。
神様の啓きと導きを感謝します。神様が私たち一人ひとりと共にいてくださいますように。