ヨハネの黙示録における「書き加えるな」という箇所の意味
自動車のクラクションの「ビーッ、ビーッ」という鋭い音が狭い路地で鳴り響いたため、彼女は考え事から我に返りました。振り向くと、「私ったら、牧師が今朝言ったあのことを考え込んでぼーっとしている間、後ろの車の邪魔になっていたのに気づかなかったのね」と悟りました。急いで謝って、車を通る場所ができるように横に移動したので、そこには彼女の細身の姿だけが残りました。冬の寒さもまったく平気であるかのように、彼女はゆっくり歩きました。
やがて彼女はまた考え込みました。ここ数年の間に、教会がますます荒れ果て、兄弟姉妹の信仰と愛が次第に消えつつあり、彼女自身も霊的な闇と弱さをますます感じていました。何度も涙を流して主イエスに呼びかけましたが、主の臨在は感じられませんでした。これは彼女にとって非常に辛いことでした。また、様々な教会を何軒か回りましたが、収穫はありませんでした。それでも主の臨在を感じられなかったのです。そんな中で、親友が彼女に本を送り、「主が再臨して新たな言葉を発せられた」と伝えてくれました。彼女は大変喜び、これを求めて学ぶのが待ち遠しくなりました。この本は読めば読むほど、「とても実際的で、人々の神への信仰での多くの誤りを正してくれる」と感じたのです。読むと心が明るくなり、素晴らしい霊的な享楽を得ました。「これらの言葉は普通の人には語れるはずがない。きっと聖霊の啓きから来たのだわ」と信じたのです。しかしその日、このことを知った牧師が、彼女にそれを学ぶのをやめさせようと何度も何度も試み、言いました。「こう書かれている。『この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる』(ヨハネの黙示録22:18-19)。黙示録には、聖書には何も加えたり取ったりしてはならないとある。主が再臨して新たな言葉を発したなどと証ししている者たちがいるなら、それは聖書に何かを加えていることになる。だから、そんな主張はどれも絶対に学んではならない。そうすれば主への裏切りになる」。これを聞いては少し怖くなり、どうすべきかわかりませんでした。心が重く、きつく縛られたように感じました。
帰宅してからもまだ腑に落ちなかったので、彼女は友人に電話して自宅に招き、交わりを共にしました。友人がの家に来たとき、二人であれこれと歓談してから、彼女は自分の困惑を打ち明けました。
友人はこう答えました。「聖書に『もしこれに書き加える者があれば……』とあるからといって、主が再臨されたときの働きや言葉に関ることを一切敢えて学ばないのは本当に混乱を招くわね。というのも、私たちは黙示録のその箇所を純粋に理解していないのだから。その本当の意味を理解すれば、あなたの混乱は解決できる。でも、この問題をはっきり理解するには、まず黙示録のこの言葉の背景を知らないといけない。実際、黙示録が書かれたのは主の時代から約九十年後だった。パトモス島でヨハネが終わりの日のまぼろしを見た後、それを記録した。当時は、旧約聖書と新約聖書を1冊の本にした全聖書どころか、新約聖書が存在しなかったのよ。新約聖書がまとめられたのは、主の時代から三百年後だった。だから、黙示録22章18節と19節で触れられている「この書」は、聖書全体のことではなく、黙示録でのその預言のことだった。それにもう少し細かく見てみると、この聖句で言われているのは、聖書ではなくてその預言に何かを書き加えるということなの。この二つの事柄からわかるのはつまりこういうことね。何も加えるなと言っているのは、『聖書の外には神からの新たな働きや言葉がない』という意味ではなく、『黙示録の預言には恣意的に何か加えたり取ったりしてはいけない』と説いているのよ」。
これを聞いて、彼女は急いで聖書を手に取って黙示録のページにめくり、それがまさにそうであると知りました。 黙示録には、その預言に何も書き加えてはならないとはっきり述べられていますが、聖書全体に何も書き加えてはならないとはありません。その聖句に基づいて、「聖書の外で神からの更なる言葉などがあるはずがない」と断定するのはまったく適切ではなかったのです。それは何と、一目瞭然でした。彼女にそれまでわからなかったのはなぜでしょうか。
友人は続けて言いました。「それに、私たちは黙示録のこの言葉の本当の意味をはっきりさせる必要がある。『もしこれに書き加える者があれば……』と書かれているけど、私たちにはこれが人間に対する警告であることが分かる。人間は預言に何も加えてはいけない。なぜなら、預言とは神ご自身が将来なさる事柄だからよ。だから神ご自身が働きに来られるまで、預言が実際にどのように成就されるかは人間にはわからない。もし人間がこの土台の上に自分の観念を恣意的に重ねたりしたら、神の御言葉を歪め、神の性質を侵し、神の罰を受けることになる。黙示録のこの言葉は神ではなく私たち人類を対象としていたことを私たちは知っておかないといけない。神は創造主で、すべてが神の手の中にある。預言の範囲外でご自身の働きをする権限があり、これはどんな創造物にも妨げられるはずがないことだし、創造物にはこれを勝手に制限することはできない。例えば、聖書の申命記12章32節には、『あなたがたはわたしが命じるこのすべての事を守って行わなければならない。これにつけ加えてはならない。また減らしてはならない』とある。ここではヤーウェ神が、神の命令に何も加えてはならないと私たちに明確に仰っているけど、恵みの時代の主イエスの働きと言葉は聖書には記録されていないし、律法の一部の要求と全く違ってさえいた。たとえば、律法の時代には『目には目を、歯には歯を』と求められたけど、主イエスが働かれていた時、主はこう仰った。『「目には目を、歯には歯を」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい』(マタイによる福音書 5:38-40)。それに、ヤーウェ神は律法の時代の人々に敵を憎めと仰ったけど、恵みの時代に主イエスは仰ったのはこうだった。『しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ』(マタイによる福音書 5:44)。旧約聖書に執着した人々が見るかぎり、主イエスが仰ったことの多くは律法の枠を外れていて、律法への付け加えだったので、彼らは主に従わなかった。特にパリサイ人は、主イエスを断罪するために旧約聖書の律法に固執し、聖霊を冒涜するというとんでもない罪を犯した。それは人間側の大きな反抗ではないかしら。神が何も加えたり取り除いたりしてはならないと御言葉で仰っているのは、人類に対する要求なのよ。神の御言葉の要求をどうして私たちが神御自身に課すことができるのかしら。神は万物の支配者で、神の働きは御自身の計画に従ってなされる。それはどんな人にも制約されないし、聖書の言葉に限定されることもない」。
そう言った後、彼女はタブレットを取り出して、器用にウェブページを開き、続けました。「これは福音サイトの文章よ。『新約の時代にイエスが行なった働きは、新たな働きを始めることだった。つまり、旧約の働きに沿った働きは行なわなかったのである。また、旧約のヤーウェが語った言葉を適用することもなかった。イエスは自分の働きを行ない、より新たな働きを行ない、律法よりも上位の働きを行なった。そのため、イエスはこう言った。「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」。よって、イエスが成就したことにしたがう形で、多くの教義は廃棄された。安息日にイエスが弟子たちを連れて麦畑を通ったとき、彼らは麦の穂を摘んで食べた。イエスは安息日を守らず、「人の子は安息日の主である」と言った。イスラエル人の規則によると、当時、安息日を守らなかった者は誰であっても石で打ち殺された。しかしイエスは、神殿に入ることも安息日を守ることもしなかったし、彼の働きは旧約の時代にヤーウェが行なわなかったものだった。だから、イエスが行なった働きは旧約の律法を超えており、それよりも高いものであり、それに沿うものではなかったのである』。
神が規則を守られないことは明らかね。どの時代にも、神は新たな働きをなさり、新たな言葉を発せられる。前の時代の法令にはとらわれない。御自身の働きの要求と、私たち人間が何を必要としているかに従って行動される。常に新たな言葉を発せられている。これだけが、人類をより高い域に引き上げ、私たちがサタンの力から完全に逃れて、最終的に神の救いを得られるようにする道なのよ。だから私たちは神の働きと言葉を聖書の内容に限定されていると考えてはいけないし、特に神の人間に対する要求に基づいて、神に『何も書き加えるな、取り除くな』と要求してはいけない。それに『聖書の外に神からの新たな言葉などありえない』と断定してもいけない。そうではないかしら」。
彼女はうなずきました。友人からこのことを聞いて、彼女はこの上なくはっきり理解できたのです。黙示録で、何も付け加えるな、取り除くなと言われているのは、「人間が神の御言葉をいたずらに削除したり追加したりしてはならない」という事実を指しているのであり、神自身がその後さらに言葉を発してはならないという意味ではなかったのです。もし人々がその箇所の純粋な理解に欠けて、自分たちの不条理な観念に固執した上に、それによって神の働きを限定すれば、恐らく神の性質を侵してしまうのではないでしょうか。それに気づいた彼女はひどく冷汗をかきました。パリサイ人は旧約律法に固執し、主イエスの言葉が律法につけ加わえていると考えたため、主が人々を惑わしたと結論付けしました。彼女はパリサイ人が犯したのと同じ間違いを犯すのをかろうじて免れたのです。
友人は続けて言いました。「ヨハネによる福音書16章12節と13節で言われていることを覚えているかしら」。
彼女はためらわずに言いました。「覚えている。私たちがよく暗唱した箇所でしょう。主イエスは言われた。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう』(ヨハネによる福音書 16:12-13)。」
友人は続けて言いました。「この聖句では非常にはっきり述べられている。神は終わりの日に戻られた時、もっと多くの言葉を発することで私たちを潤し養って、私たちがすべての真理を理解してそれらに入れるようにしてくださる、とね。黙示録にはこういう預言もある。『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。また、白い石を与えよう。この石の上には、これを受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある』(ヨハネの黙示録 2:17)、『わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。また、ひとりの強い御使が、大声で、「その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか」と呼ばわっているのを見た。しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた。すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」』(ヨハネの黙示録 5:1-5)。ここで触れられている『御霊が諸教会に言うこと』と『隠されているマナ』、開かれる七つの封印の巻物などはすべて、神が終わりの日に戻られたときにもっと多くの言葉を発し、もっと多くの働きをなさることを証明している。神は私たちがこれまで理解したことのない奥義をすべて明らかにしてくださる。ということは、私たちは『もしこれに書き加える者があれば……』という言葉を理由に、「聖書の外にあるものはどれも神の御言葉ではありえない」なんて本当に結論付けられるのかしら。こうも書かれているわ。『イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う』(ヨハネによる福音書 21:25)。この聖句からも、『主イエスが働いている間に多くのことを語られ、多くの御業を行われたこと』と、『聖書に記録されていることが限られている』ことがわかる。主イエスの言葉と働きがすべて記録されているわけではないのよ。主イエスの働きと御言葉のすべてすら聖書に記録されていないのだから、私たちが『聖書の外にあるものは神の御言葉ではありえない』と言うのは、主御自身の御言葉と御業を否定することにならないかしら」。
これを聞いて、彼女は興奮のあまり立ち上がって言いました。「あらあら、私は毎日聖書を読んでいたのよ。どうしてこの奥義に気づかなかったのかしら。あなたの交わりのおかげで、自分の中でどんどんはっきりしてきたし、もう完全に分かったわ。聖書に記録されている神の働きが限られていて、神の働きと御言葉の完全な記録ではないことがね。それは主イエスの働きと御言葉の完全な記録ですらない。主イエスが三年余り働かれていたことを考えると、主がある特定の日に仰ったことは、現在聖書に記録されていることよりもはるかに多かったでしょうね。主は終わりの日に戻られるとき、新たな働きを行い、新たな言葉を発せられる。これは否定できない事実で、預言にとてもはっきり書かれている。人間は神の働きを決して限定することはできないし、特に神を聖書の範囲内で定義することはできないことは今の私にはわかる。真の道を探るときは特に、私たちは主をお迎えするために本当に聖霊の導きに従って、広い心でそれを求めて学ばなくてはならない。さもないと、パリサイ人のようになってしまう。彼らは聖書の文字通りの言葉にこだわったために、神に逆らって最後には滅ぼされた。そんなときに後悔しても遅すぎるわ」。
友人は微笑んでうなずきました。「その通りよ。私たちは子羊の足跡について行きたいなら、義に飢え渇く心と、真理を求める心を保たなくてはいけない。自分たちのどんな観念や想像にも妨げられてはいけない。それだけが、終わりの日の主の現れをお迎えし、賢いおとめとなって、神の御座の前に携挙される道なのよ。主イエスが仰った通りね。『こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。…義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。……心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう』(マタイによる福音書 5:3、6、8)。
彼女は激しくうなずきました。混乱がすっかり晴れて、信じられないほどうれしく感じました。彼女たちが交わりを続けている間、二人の幸せで快活な笑い声が時々外に漏れました……