敬虔にヤーウェに仕えるパリサイ人はなぜ、主イエスに逆らったのか
わたしはキリスト教家庭に生まれ、16歳から主に仕えています。教会の中で、わたしは合唱をリードします。25歳で神学院を卒業した後、神に仕える道を正式に歩みました。わたしは、一生主に仕えることが最も光栄なこと、最も意義のあることだと思い、また、以前神に遣わされた人を羨んでいます。特に「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『よい知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』と書いてあるとおりです」(ロマ10:15)というパウロの言葉を見た時、わたしは神に仕えるすべての人は神に油塗られ、遣わされる者、神の代弁者、神に対して最も認識がある人だと思っていました。だから、わたしは心の中でいつも一種の優越感があり、わたしが神の奉仕者として神によって選ばれ、定められた人で、わたしの理解する真理は一般の信徒より多く、神に対するわたしの認識も多いと思っていました。わたしはまた、わたしより年上の牧師、長老を崇拝し、彼らのように多く働き、多く費やし、苦しみを多く受けることを極力追い求めていました。その後、わたしの仕事の範囲がますます大きくなり、わたしの導く人がますます多くなるので、わたしは自分はすでに主を認識し、すでに聖書の中のすべての真理を理解し、自分は神に喜ばれる人になったと思ってしまいました。
ある日、わたしは主イエスがパリサイ人を呪われる時、次のように言われたのを見ました。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。……やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。……律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだが飲み込んでいる。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。……先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」(マタ23:13-14、23-26、32-33)。
主イエスのパリサイ人を呪われる言葉から、主イエスがパリサイ人を恨んでいて、彼らを憐れまないということが分かりました。パリサイ人を扱う時の主イエスの中から流露される性質は、主イエスにつき従うすべての人がめったに見ない神の義なる性質の一面だ。パリサイ人はユダヤ教のリーダで、神殿、会堂の中でヤーウェ神に仕える人、律法に精通していて、直接神に仕える人でした。なぜ彼らはこれらの悪行を行なったのでしょうか。なぜ彼らは主イエスがヤーウェ神から来た者だと分からなかったのでしょうか。なぜ彼らは主を認識しなくて主に逆らったのでしょうか。なぜ主は彼らに呪いの言葉を発されたのでしょうか。わたしはこれらの問題でひどく戸惑いを感じていました! このために、わたしはいつも主に祈り、また多くの材料を調べました。歴史文献と聖書を調べることによって、わたしはパリサイ人は民数記第23章9節に述べられている人だと分かりました。そこにこう書かれています。「わたしは岩山の頂から彼らを見、丘の上から彼らを見渡す。見よ、これは独り離れて住む民、自分を諸国民のうちに数えない」。彼らは断食して祈ること、全収入の十分の一をささげること、清めの規定を重んじ、安息日やさまざまな祭りを守り、神はきよくて唯一であり、イスラエルの民はヤーウェ神に選ばれた民だと思っていました。彼ら自身は律法を厳守し、またいつも律法をもって民を教えていました。彼らは民の心の中でかなり高い位置を占めていました。民は、パリサイ人が敬虔にヤーウェ神に仕える人、最も神に良しとされる人だと思っていました。
関連資料を見た後、問題が解決されていないばかりか、かえっていっそう戸惑いを感じました。パリサイ人が非常に律法に精通していたので、当時の人は彼らが非常に「よい」と思い、彼らを崇拝していました。それなのに、なぜ彼らは主イエスの言葉を理解しなかったのですか。それだけでなく、彼らの「敬虔」は偽善的なものだと主イエスは罪定めされました。これで分かるように、パリサイ人は長年神に仕えたが、神を認識することができず、神に良しとされることもできず、かえって主イエスに逆らって、主から呪いを受けました。この中に求めるべき真理があります!
わたしは聖書にこう書かれているのを見ました。「そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。『この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう』。……この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」(ヨハ11:47-48、53)。これらの言葉をよく考えることによって、わたしはこういうことを発見しました。パリサイ人が主イエスを殺そうとしたのは、民がみな主イエスにつき従うのを恐れていたからです。民が主イエスに聞き従うなら、神殿の中で彼らの説く道を聞く人がいなくなり、こうして彼らは民の心の中の位置を失ってしまいました。だから、彼らは民を彼らの権威の下にコンロトールし、すべての民の間での自分たちの権威、地位を守るために主イエスを殺そうとしました。ここまで考えてきて、わたしはパリサイ人が実に残忍だと感じます。十戒の中に「殺してはならない」と書かれているのに、彼らはおおっぴらに戒めに背きました。彼らは神を畏れる心を持ちませんでした。彼らがヤーウェ神に仕えるのは、人に神を証しして、人を神の前にもたらすためではなく、自分の地位のためであり、神に仕えるという手段で人心を籠絡するためでした。彼らがどんなに律法に精通しても、彼らの説いた道がいくらすばらしくても、彼らの目的は自分をひけらかし、自分が人に重く見られるようにすることです。道理で主イエスは「そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする」(マタ23:5)と言われたわけです。主イエスの言葉からわたしは分かりましたが、パリサイ人のしたすべてのことは神の戒めを守るためではなく、人に見せるためでした。例えば、彼らはわざと大通りの角に立って長い祈りをしました。断食する時、彼らは断食していることを人に見せようとして、わざと顔を見苦しくしました。彼らはまた、にぎやかな大通りで施しをし、善を行なうようなことをして見せました。彼らは「念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない」という昔の人たちの言い伝え、宗教的儀式をさえ厳守していました。実は、パリサイ人はささいなことにばかり考えをねて己を偽るのでした。そのため、主イエスは彼らを偽善的なパリサイ人だと言われました。彼らが長年神に仕えたのに、神に逆らった原因は、彼らの奉仕の意図、目的が正しくなかったからです。彼らが神に仕えるのは、神のみこころを行なうためではなく、外側のよい行ないによって人を惑わすためであり、自分の地位のためでした。だから、彼らは神に仕えたが、神を認識できず、なおさら神に良しとされることができず、かえってますます神の要求を達成できなくなり、最終的に神に罪定めされました。
わたしはまた主イエスがこう言われたのを見ました。「ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。……わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか」(ヨハ8:40、46)。主イエスの言葉から分かりますが、パリサイ人は主イエスの口から出た真理を受け入れることができませんでした。彼らは律法に精通していたが、神の道を愛さず、むしろ聖書の言葉によって自分を装い美化しました。彼らは自分を装い美化するほど、ますます傲慢になりました。だから、彼らは「メシヤの再来」に関する預言に対する彼らの理解は正確だと堅く信じ、またそれによって主イエスを罪定めしました。「メシヤの再来」については、聖書はこう言っています。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」(イザ9:5-6)。パリサイ人はこの預言の文字どおりの意味によって、このように考えていました。権威が来たるべきメシヤの肩にあるから、メシヤは来られる時、きっとダビデのように彼らの王となり、しかも彼らを導いてローマ人の支配を翻し、彼らを、ローマ人に圧迫され、苦しめられることから救われる、メシヤが彼らの王となるから、彼はきっと王宮に生まれ、しかもその容貌が非凡で、その才能が群を抜いている、と。でも、預言の成就は彼らが想像したのと大いに違います。主イエスは王宮にではなく、飼い葉おけの中に生まれ、高官や貴族の家にではなく、普通の貧しい大工の家に生まれました。彼の容貌は非凡ではなく、普通でした。いっそう彼らの観念に反することは、主イエスが彼らが想像したように彼らの王となって、彼らを導いてローマ人の支配を翻したことがなく、かえって彼らに容赦し、忍耐し、敵を愛するように教えられることです。彼らはまた聖書の言葉をかたくなに守って次のように言いました。「それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある」(イザ7:14;9:6)。しかし、主が来てなさったことは、パリサイ人が想像したのと違います。来たるべきその方は処女から生まれたのだと預言されていますが、パリサイ人の見た主イエスには両親がいました。メシヤがベツレヘムに生まれたと預言されていますが、パリサイ人の目には、主イエスがナザレ人であり、彼らはガリラヤに預言者が現れたことがないと言っていました。聖書に来たるべきその方はインマヌエルと呼ばれると預言されていますが、来られた方の名はイエスでした。だから、パリサイ人から見れば、主イエスはきっと来たるべきメシヤではありません。主イエスが来てなさった仕事は旧約のヤーウェ神のなさった仕事と完全に異なります。主イエスは神殿に入らず、また律法を守らず、安息日を守りませんでした。当時の人は、主イエスが律法を廃棄し、主イエスのなさったことがヤーウェ神の教えに合わないと思い、また、主イエスは神の子と自称したと言っていました。主イエスの働きには彼らの想像に合うところが全然ないから、彼らはイエスが彼らの待ち望んでいる来たるべきメシヤだと認めず、主イエスの働きを受け入れようとしませんでした。彼らはただ聖書の文字と、自分の頭の中で想像している神を信じ、聖書の文字に反する神のすべての新しい働き、彼らの頭で想像している神らしからぬすべての新しい働きを耐え忍ぶことができませんでした。主イエスには彼らの想像しているメシヤらしいところが全然ないので、宗教の上層部のこれらの指導者は主イエスが彼らの待ち望んでいるメシヤではないと思い、またあの手この手で主イエスに逆らい、主イエスを罪定めし、主イエスの伝えられる道を誹謗し、最終的に「イエスが神の名をみだりに唱え、律法を守らない」という理由で主イエスを十字架につけ、そのためこの上なく大きな罪を犯しました。
神の啓き、導きに感謝します。パリサイ人が長年神に仕えたのに、神に逆らった原因は、わたしはやっと分かりました。第一に、彼らが神に仕えるのは、天の父のみこころを行なうためではなく、自分の私欲のためでした。第二に、彼らの性質があまりにも傲慢なので、真理を受け入れられず、聖書の言葉に対する自分の理解をかたくなに守り、またそれによって主イエスを罪定めしました。第三に、彼らはただ聖書の文字、教理、規定と宗教的儀式を守っていました。彼らは外側の偽りの敬虔があるが、神の言葉と神の道を守りませんでした。彼らは地位と、名誉と、他人におだてられ、崇拝されることとを追い求め、地位を享受していました。主イエスはパリサイ人の歩む道と、彼らの本質をさらけ出して呪われました。こうして、わたしたちは神がどんな人が好きなのか、どんな人を恨むかを見ました。それは神の義なる性質を明らかにしました。パリサイ人が神に仕えるのに、神に逆うという面の真理を理解することによって、わたしは神に仕える人はみな神に対して最も認識がある人だと思わなくなります。わたしたちが神に対して認識を持つかどうかは、神に仕える過程の中で天の父のみこころを行なうことを追い求めるかどうかにかかっています。パリサイ人はただささいなことを重んじ、戒めの実質を守りませんでした。パリサイ人のさまざまな言動を思い返しているうちに、わたしは長年主イエスに仕えた多くの人もこのような言動があることを発見しました。彼らはいつも愛をもって訪問し、信徒のための神への祈りをし、ある時生活が苦しい信徒に小さな助けを与えます。しかし他人の意見が彼らの意見に反し、彼らの利益にかかわると、彼らは少しも譲歩しません。例えば、同労者たちは献金の使い方について意見が合わない時、教会はすぐ分裂します。このような時、ほんのわずかな利益でも争わなければならないと言えます。ある同労者がほかの同労者が人に顔向けできないことをするのを見て、相手を暴露するとしたら、彼は相手の敵になり、こうして、この両者はしのぎを削って争うようになります。彼らは主の意志を求めず、またどのように天の父のみこころを行ない、主の言葉を守るべきかを追求しません。彼らが教会の仕事をするのは、ただ地位、生活の道を追い求め、人に自分を崇拝させ、自分の野心、欲望を満足させるためです。ここ数年来、宗教界の教会が分裂し、宗派が林立していることは潮流になりました。これは、牧師、長老が傲慢で独りよがりで、自ら王と称しようとすることの真実な表れです。この時、わたしは講壇に立って多くの人に道を説くことは優越感のあることだと思わなくなり、自分の主への奉仕の生活を改めて反省します。二千年が過ぎたが、今の講壇の上には、まだどのくらいの現代のパリサイ人がいるでしょうか。