寄稿家:ジアナン(フランス)
2015年4月、私は海外の中国系キリスト教会での集会に参加しました。当初は教会内に明るい様子が見られました。兄弟姉妹たちが率先して聖餐式を行っており、更に、教会内には様々なキリスト教徒のフェローシップがありました。牧師はとても敬けんな方で、兄弟姉妹たちに対しても愛情を持って接している様子でした。例えば、誰かが病気にかかると、この牧師は同僚たちに彼または彼女のために祈りを捧げるよう誘導していました。彼らは集会に参加しなかった信仰者たちの訪問までしていました。当時私は熱心に真理を追い求めていたので、牧師は私のために神学教育の準備をしてくださりました。しかし、しばらくした後、様々なキリスト教徒のフェローシップがあったにもかかわらず、ほんの数人しか集会に参加したり、説教を聞きに来ていなかったのです。例えば、毎週行われていた聖書の勉強会の前には数十人の人たちが食事をしには来るのですが、勉強会が始まると6,7人しか残っていませんでした。聖書の勉強会に参加しようと残った信仰者が何人かいましたが、彼らは居眠りをしていました。牧師はこの事態を分かっていても、全く問題解決ができなかっただけでなく、集会を開かない教会よりはましだと言っていたのです。私はまた、中には企画したアクティビティにもっと人を参加させるために異なる種類のスナックと軽食を作っていたフェローシップもあったことも知りました。私は神に仕えているように見えても、心の中は暗く空っぽでした。これを理由に、私は主が雲から降臨されて私たちを天へとお引き上げくださることを頻繁に祈り、それを待ち焦がれていました。
私は自分の祈りにお応えくださった神に感謝しています。2017年の初め、私が教会の姉妹たちと一緒に春の行楽に出かけた時、私は全能神の教会から来た兄弟ヂャンと兄弟リュウと知り合いになりました。その後、私たちは一緒に教会のわびしい状況の原因について話し合いました。私は、彼らの話を聞いて、当時は宗教界全体が暗くわびしい状況にあったことを知りました。従って、兄弟姉妹たちは信仰心と愛情に欠けていたのです。これに加えて、牧師たちも新しく説くことを何も持っていませんでした。これはアモス書8:11に記されたこの事態を現実化していたのです、「主なる神は言われる、『見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。』」そして、私たちは主の再臨について話しました。私は主の再臨をいつも切望していたので、この話題を追求し、探求し続けるつもりでした。
後に、全能神の教会から来た2人の兄弟は、主イエス様は既に肉としてお戻りになられており、世の終わりの裁きの働きを成されていると私に証言したのです。全能神は再臨なされた主イエス様なのです。これは聖書に記録されている次の内容を現実化しています、「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。」 (ルカによる福音書17:24)。兄弟ヂャンも私と一緒に人の子の来臨にまつわる謎について話し合ってくれました。私は、彼らから主イエス様は既に肉としてお戻りになられていると聞いて、驚いたと同時に嬉しくなりました。私は聖書に記された次の御言葉を考えずにはいられなくなりました、「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)。「だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」 (マタイによる福音書 24:44)。以前、私がこれらの節を読んだ時は、これらが一体何を意味しているのか解りませんでした。これらは世の終わりに受肉された主の秘密の働きに関することなのでしょうか?しかし、この時、私はこう思いました:「聖書の中には主が万人に見える形で雲から降臨なされるとする預言が沢山ありますが、これは一体どういう意味なんでしょう?」私が戸惑いを口にした後、兄弟リュウがこう話してくれました、「聖書の中には主が御自信の御力と偉大な栄光をもって雲から降臨なされるとする預言が沢山あります。これは真実なのです。しかし、次の節にもあるように、主がその御姿を隠しながらお越しになることを預言している箇所もいくつかあります、「見よ、わたしは盗人のように来る。」 (黙示録 16:15)。「だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(マタイによる福音書 24:44) 「その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」(マルコによる福音書13:32)。この聖書の言葉から、主がこのような形で再臨されるのは私たちが想像しているほど容易ではないことが分かります。主が再臨される方法は2種類あります:1つはその御姿を隠されながら、そしてもう1つは公然とした方法です。すなわち、受肉された主は世の終わりにその御姿を隠しながら来られ、人類を裁き、清め、そして救う働きをなさるということです。受肉された神が御姿を隠しながら再臨される際の働きは、その終末の働きにおいて克服者の集団をお作りになれた後で完結するのです。従って、神は大災害を引き起こされ、善良な人には恩恵を、邪悪なものには罰を与えることに着手なさるのです。災害の後、主は雲の上から無数の人に対して公然とその御姿をお見せになられます。そして、次に書かれている通り、主イエス様が公然と降臨なさるという預言が現実となるのです:「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マタイによる福音書24:30)。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。」(黙示録 1:7)。私たちが雲の上から公然と人々に御姿をお見せになる主を目の当たりにする時、受肉された神の秘密の働きを受け入れない人たちは間違いなく救われる機会を失います。神を突き刺したものたち、または世の終わりのキリスト様であられる全能神に抵抗し、非難を浴びせたものたちは、自分たちが抵抗し、非難を浴びせた全能神は正に降臨なされた主イエス様であられることを知り、絶望のうちに胸をたたきながら悲しみ、嘆き、怒りをあらわにするのです。そして、その時、地上に住む全種族の嘆き悲しむ光景が広がるのです。しかし、受肉された神が秘かに裁きの働きを成される間、私たちは主が雲の上から公然とその御姿をお見せになる様子を見ることは決してないでしょう。
私は2人の兄弟が話してくれた内容から次のことを理解しました:「主は御姿を隠しながら御自信の御言葉を表現するために受肉され、御自信の働きによって克服者の集団を手になさった後は無数に存在する人間たちに御自信の御姿をお見せになられ、善良な人には恩恵を、邪悪な人には罰をお与えになるのです。」彼らの交流によって私はこれを完全に確信しました。私は全能神の教会について徹底的に研究する決意をしました。しばらく研究をした後、私は神の3段階の働きの内容や、終末の時代に裁きの働きをなさる方法とその意義、さらには神の受肉について等多くの真理を知りました。私は全能神はかねての主イエス様であられるのだと強く確信したのです。その後すぐ、私は全能神の教会で集会に参加し始めました。
2017年5月、私が世の終わりの神の働きを受け入れたことを疑った牧師リーは、教会で2人で話しをしたいと2度も伝言を送ってきました。彼の伝言を読んだ私はびっくりしたと同時にナーバスになり、こう思いました:「彼は前、集会の場で堂々と全能神を罪人扱いして、私たちが全能神教会の兄弟姉妹たちと連絡を取ることを妨害し、阻んでいたよな。最近は自分がチャットグループで全能神に抵抗して、全能神を罪人扱いしている様子を撮った動画なんか共有していたし。私が世の終わりの全能神の働きを受け入れたことを知ったら、彼は私をどんな目に合わさてくるだろう。彼は私に無理やり全能神を冒涜させたり、真理の研究を止めさせることなどできるんだろうか?」私はとても怖くなりました。その後すぐ、私は神の前に行ってこう祈りを捧げました、「全能の神様。私の新しい教会の牧師と長老たちは私があなたの新しい働きを受け入れたことを恐らく知っているのではないかと思います。彼らは私と教会で面談をする予定を立ててきました。彼らが何を計画しているのか分かりません。神様!あなたは天と地、そして万物を支配される主権者であられます。あなたは人の心の奥底まで見抜くことができる神であられます。彼らが何を言ってこようとも、どうか私に正しい言葉、自信そして知恵をお与えくださ、そして私が彼らに立ち向かえるようにしてください。」こう祈りを捧げた後、私はすぐに全能神教会の兄弟姉妹たちにこのことを伝えました。彼らは私に神の前でもっと祈りを捧げるように言いました。更に、彼らは、もし牧師と長老たちが真理を求める、または研究する意思をもっておらず、全能神に対して直接非難し、抵抗しているのなら、私は神の側に立って真理を守り、神の証言をすべきだとも言いました。神様ありがとうございます。兄弟姉妹たちの言葉は私をとても忠実にしてくれたと同時に、私が牧師と長老たちと対面できる強さを与えてくれました。
私は予約の時間に教会に到着し、牧師リーと2人の聖職者が待つ部屋に呼び込まれました。私はすぐ緊張して、素早く心の中で神にこう祈りを捧げました:「神様、どうか私の心をお守りください、そしてあなたの証言をできるように、適切な言葉をお与えください。」私が席につくと、牧師リーは率直にこう質問してきました,「あなたはよそ者たちを自宅に受け入れて、その者たちの説教を聞いていたらしいではありませんか。どうして私たちに相談しなかったのですか?あなたは私たちの教会で主の働きを受け入れたのだから、私たちはあなたに配慮する必要があるのです。私たちはあなたのことが心配です。これはあなたのためにやっているのですよ。」私は彼の言葉を聞いて不安になり、こう考えました:「どうしてあなたはいつも私に制限を課して、縛りつけてくるのですか?どうしていつも私を束縛して、コントロールしたがるのですか?私は自由に真理を学び、研究することができるんです。」そして、私は正当に厳粛な態度でこう答えました、「確かに、私は自ら進んで主を信仰し、洗礼を受け、この教会に来ましたが、そしたら私はもう他人の説教を聞いてはいけないと仰るのですか?聖書にはこう記されています、「したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」(ロ—ラによる福音書10:17)。 あなたは私がよそ者を受け入れたりすることも、他人の説教を聞くことも許しになりませんが、それははたして主の教えと合致しているのでしょうか?実際に、全能神教会の兄弟姉妹たちの交流を数回聞いた後、私は彼らの説教はとても素晴らしく、それには聖霊の新しい啓きがあると考えるようになりました。彼らは真理の交流を通じて私の生活における様々な困難を解決することができ、神の働きと聖書に記されている謎に関する知識を与えてくれています。彼らの交流と説教には聖霊の働きが宿っているのです。。。」私が喋り終える前に、牧師リーが怒りながら割り込んできました。その後、彼は言葉で激しく神を冒涜しました。私は腹を立てて彼にこう言いました、「あなたは全能神教会の兄弟姉妹たちと連絡を取りましたか?全能神の働きを求めて、研究していますか?してもいないのに、無作為に全能神教会を非難するなんて無神経すぎます。現世においても、来世においても神を冒涜する罪は許されないのだから、私たちは信仰者として、神を敬う心を持つ必要があるのです。」
その後、牧師はこうも言いました、「全能神教会は主イエス様が肉となって再臨されたと証言している。そんなことは不可能です。聖書にははっきりとこう書かれているのです、『見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。』(黙示録 1:7)。 従って、主は世の終わりに雲の上から再臨なさるに違いないのです。」彼のこの言葉を聞いた後、私は兄弟ヂャンが私と交流してくれた時に私たちがこの節について理解し、知り得たことについて考えました。従い、私は彼らにこう言いました、「私たちが神の働きをこの節の文字どおりの意味だけで定義してしまうのは不適切です。実際には、人の子の来臨を言及している箇所が多く存在しています。これはその1例です、『いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。』(ルカによる福音書17:24)。『見よ、わたしは盗人のように来る。』(黙示録16:15)。これらの節は全てが人の子の来臨について触れています。人の子の言及があるので、それは受肉されたキリスト様を指しているに違いありません。」牧師リーが割り込んでこう言いました、「人の子とは主イエス様のことを指しているのです。」これに私は言いました、「これが主イエス・キリスト様を指しているのであれば、主イエス様が既に受肉されて贖いの働きを成就なされた後にどうして、『しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。』 (ルカによる福音書 17:25)。などということが言えましょうか?これからも分かるように、これは世の終わりに2度目の受肉をされた神を指しているのです。世の終わりに再臨された主が、肉としてではなく、霊的な御姿をお見せになるのなら、言うまでもなく主が多くの苦しみを強いられること、ましては現世代から拒まれることなどあり得ません。」この後は、私が彼らとどのように話をしても、彼らは聞く耳を持ってくれず、真理を調べもせず、依然として聖書の表面的な意味を固執していました。
この時、私は、彼らは間違いなく再臨される主を心待ちにしている人たちではないことを明白に知りました。私は神の御言葉のこの節のことを考えました、「どの教団、教派の指導者を見ても、みな独善的で聖書を勝手に解釈しています。彼らは賜物と学識に頼って働いています。彼らが説教をすることが出来なければ、人々はそれでも付いて来るでしょうか。」(「真理の追求のみが真の神への信仰」より)神の御言葉が明らかにされることは全てが真実です。聖書には、人の子が来臨すること、そして主が盗人のように来臨されることを予測する箇所がたくさんあります。牧師と長老たちはその全員が神学校を卒業し、聖書を極め、長年に渡って主に仕えてきています。しかしながら、彼らは聖書にある預言の真義を読み取ることができないのです。彼らは神を信仰していながら、聖書の表面的な意味を学ぶことにしか集中しておらず、人々から尊敬されたいがために、神学理論を身に付けて自己顕示しているだけだということが分かります。これ故に、彼らは聖書を暗記し、長年に渡って説教し、働いてきているにもかかわらず、神を全く理解していないだけでなく、主イエス様が再臨される時に、宗教的な観念を固執することで神の働きに制限を課してしまうのです。彼らは正に盲目に人々を導く人たちなのです。
ついに、往生しない私を見た牧師リーは、同僚たちの前で立腹してこう言いました、「私が教会を代表して結論を発表します。今後、あなたの教会における奉仕活動全てを中止します。これについて、自宅で落ち着いて慎重に考えなさい。」その瞬間、私は心が痛み、滴り落ちる涙を抑えられませんでした。私が悲しかったのは彼らが私の奉仕活動を中止したからではなく、長い間牧師リーと仲良くしていたにもかかわらず、そして彼は表面的にはとても敬けんで、主のために最善を尽くし働いていたように見えたにもかかわらず、彼らは私が真の道を調べていたことだけを理由に私を責め立て、私を見捨てたことが理由でした。彼らは信仰者たちに説教をして、主が来臨されるのを待っているようにとずっと言っていたのです。今、主は肉として再臨されておられるのに、彼らは神の終末の働きを見い出すことも、調べることもしていません。それどころか、彼らは真の道を調べる人々を妨害し、非難しているのです。この現状をふまえ、私は思わず主イエス様がパリサイ人たちを非難するために仰ったこの御言葉について考えました、「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。」 (マタイによる福音書23:27)。当時のパリサイ人たちを振り返ってみてください。彼らは頻繁に礼拝堂で信仰者たちに聖書の説明をし、人々の前で祈り、聖書の規定によって他の人たちに有罪を宣告していました。表面的には、彼らは聖書に従い、とても敬けんな人たちであったように見えました。しかし、彼らは神の御言葉を実践して神の御命令に従う代わりに、宗教的儀式を行い、宗教上の規則に従うことだけに留意していました。彼らの振る舞いと行動は神の御心と御要求とは逆の方向に向かっていたのです。これがパリサイ人たちの偽善行為の本質であり、神に対する抵抗だったのです。それでは現代の牧師と長老たちに注目を戻しましょう。彼らは聖書に盲目な信念を注ぎ、それを敬い、称賛しています。彼らは宗教的儀式の種類、日常の宗教的業務と朝課に参加すること、パンをちぎり配ること、聖餐式に参加すること等にしか集中していません。彼らは信仰者たちに謙虚さ、辛抱強さ、敬けんさ、そして愛を説くことだけに重点を置いています。しかし、実際には、彼らは神を愛したり、神に従ってもいなければ、神を敬う心など全く持っていないのです。彼らは働いて説教をする時、聖書に関する知識と神学理論を固執し、それらを詳しく解説することしか重要視していません。主の御言葉の内容を実践して体験することや、神の御命令と御要望に従うにはどうすれば良いのかということになると、彼らはこれらを求ることも、探求することもなく、これらを実践して、これらに従うように人々を導きもしないのです。彼らは自己顕著するために、そして自分達が出生するために働き、人々に自分たちを尊敬して、敬うように仕向けているのです。
後に、私は、私と共に全能神の終末の働きを受け入れた姉妹も牧師とその同僚たちから非難を受け、教会から除名されていたことを知りました。牧師と長老たちはまた教会を完全に封鎖して、ここ2年の間に教会の集会に参加した信仰者の中に全能神教会から来た者がいないかどうかを知るための調査を実施しました。さらに、毎週日曜日の午後には、牧師が教会内で全能神教会対抗を唱えるようにもなりました。私はこの知らせを聞いて激怒しました。教会の中にはまだ主を心から信仰し、主の再臨を強く待ち望んでいる兄弟姉妹たちが何人かいました。しかしながら、彼らは全員がと当時はこれら偽善的な牧師と長老によって束縛され、コントロールされた状態にあり、真の道を調べる機会が全くありませんでした。私はこう考えていると懸念に駆られました。そして、私は主イエス様のこの御言葉のことを考えました、「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。」 (マタイによる福音書 23:13)。主イエス様が来臨され、説教された時、パリサイ人たちは主イエス様の御言葉には権威と力があることをはっきりと分かっていました。彼らは主イエス様の御言葉を求めることも、調査することもせず、その代わりに、主イエス様は悪霊を払拭するために悪魔の王子を頼りにしているなどと言いながら悪意をもって主イエス様を非難し、中傷することで、聖霊に対する冒とくの罪を犯し、神の性質を深刻に害したのです。パリサイ人は自ら主イエス様を冒涜し、非難しただけでなく、信仰者たちを駆り立て、欺くことで神に抵抗させ、神を非難させたのです。その結果、彼らは主からの御救いを逃し、パリサイ人の副葬品や犠牲者となってしまったのです。この牧師と長老たちの行為は当時のパリサイ人のものともはや同じなのです。人々が主イエス様の再臨に関する福音を広めると、彼らは教会を封鎖して信仰者が真の道について調べることを妨げるのです。これはこの人たちは、人類に対して天国への道を閉じ、自らがはいることもなければ、他人にもはいらせないという人々であるということを示していないでしょうか?しかし、私が一番理解に苦しんでいるのは、この牧師と長老たちはパリサイ人は主イエス様に抵抗していたことを明らかに分かっているにもかかわらず、どうしてパリサイ人の道を歩んでいるのかということです。どうして彼らはこんなに必死になって神の新しい働きに抵抗し、それを有罪扱いするのでしょうか?
その後、私は神のこの御言葉を目にしました、「荘厳な教会で聖書を読む者たちは毎日聖書を朗読するが、一人として神の働きの目的を理解しない。一人として神を知ることができない。さらに、一人として神の心と一致していない。彼らは皆価値のない、卑劣な人々だが、それぞれ神を教えるために高い地位に就いている。彼らは神の名をこれ見よがしに振りかざすが、故意に神に反抗している。彼らは自分たちを神を信じる者と自称しているが、人の肉を食し、その血を飲んでいる者たちである。そのような人々は皆人の魂を貪り食う悪魔、正しい道に一歩踏み出そうとする人々を故意に混乱させる悪霊、神を探し求める人々の道を妨げる躓きの石である。彼らは『健全な肉体』の者たちであるが、彼らの信者たちはどうしたら彼らが人を神に敵対する方向へ導く反キリストであると知ることができるだろうか。どうしたら彼らが魂を好んで求めては貪り食う悪魔の権化であることを知ることができるだろうか。」(「神を知らない者はすべて神に反対する人々である」より)。神の御言葉を読み、そして自分の個人的な体験により、私は宗教界における牧師と長老たちの本性を見極めました。彼らは正に障害物であり、神を信仰するという旗印の下に神に反抗し、人々が神を信仰するのを妨げるキリストの敵なのです。名目上、彼らは教会で兄弟姉妹たちを育てているということになっています。しかし、実際には、彼らは信仰者たちがいのちの成長を遂げることなど全く気に掛けていないのです。信仰者たちの信念と愛は冷めてしまい、それと同時に彼らは否定的かつ弱気にもなってしまいました。今回のケースについて言うと、牧師と長老たちは信仰者たちに真理を求めたり、聖霊の働きが宿る教会を見つけに行くように導いたりもせず、むしろ信仰者たちを厳重な管理下に置いているのです。特に、全能神が人々にいのちを備えようと真理をお示しになる時、彼らはそれを調査せず、受け入れもせず、代わりにありとあらゆる方法で真の道に反抗し、それを非難し、信仰者たちが真の道を調査するのを妨害するのです。彼らは信仰者が全能神教会にいる人々と連絡を取ることや、全能神の御言葉を読むことを許しません。彼らは自分たちの地位と生活のために、終末の時代における神の働きについてあちこちでうわさを流し、神の働きを中傷し、非難するのです。牧師と長老たちの振る舞いと行動全ては神に抵抗するものではないでしょうか?彼らは主イエス様が仰る悪の従者、もしくは現代のパリサイ人と言えないでしょうか?彼らは可能な限り、信仰者が世の終わりの神の御救いを受け入れることを邪魔するのです。彼らは私たちを地獄に向って引き寄せ、神の終末の御救いを授かる機会を逃させようとしているのです。これらも分かるように、彼らは人類の魂をむさぼり食う悪魔で、羊の皮を被った狼なのです。私は、牧師と長老たちの持つ真理を嫌い神に抵抗する本性と本質を見極めた後、彼らを心の底から嫌い、拒絶し、これ以上彼らに束縛されることはなくなりました。
私は新しい教会では奉仕活動の全てを中止されられましたが、今現在は全能神教会で自分の本分を尽くしています。私は兄弟姉妹たちと頻繁に集まり、そして自分の本分を尽くすことで以前よりも価値があり、有意義な生活を送っていると感じています。神様、どうもありがとうございます。私はついに天国につながる道に置かれた障害を乗り越え、神の御許にはいることができたのです。私は神を従う過程において、神に満足していただき、神の御心を和ませることに精一杯努力いたします。全ての栄光、全能神にあれ!アーメン!