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生まれ変わる真の道を見つけた

私はクリスチャンの家庭に生まれましたが、両親は知識不足のため聖書に関する知識は何も説明してくれませんでした。後に、私は教会の経営する教区立学校に入学しました。そこの先生は毎週聖書の勉強会を開いてくれました。それ以降、私は聖書を理解し始め、ノア、アブラハム、そしてダビデといった伝説的な聖徒が沢山登場することを知りました。彼らは全員が素晴らしい人たちで、私は彼らのストーリーに感心し、彼らが羨ましくなりました。次第に、私は日曜学校に通い始め、祈りの捧げ方を学びました。しかし、その後、私は生活のストレスから退学してしまい、代わりに家を出て働きに行きました。

私が以前受け入れた信仰により、私は神を信仰することは救われて、天国に入るためであっても、天の御国に入りたいのであれば、私たちは完全に告白し、悔い改め、常に主のもとを離れてはいけないのだと分かっていました。なぜなら聖書にはこう記されているからです。「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。聖書に、『わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである』と書いてあるからである」(ペテロの第一の手紙1:15-16)。したがって、私は家から離れて働いていた間も、毎週日曜日の集会には可能な限り足を運びました。

それと同時に、主を喜ばせ、将来救われて天国に入れることを期待した私は主の道を守り、完全に悔い改めることも望みました。それにもかかわらず、実際、私は頻繁に罪を克服できないことがあり、常に罪を犯し告白するといった状態の中を生きていました。例えば、主は、「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。」(マタイによる福音書5:37)、と仰って私たちに真実を語ることを教えてくださりました。しかし、時折、私は一時的な欲を満たそうと一日中トランプをして遊んでいたにもかかわらず、友人に電話でどこにいるのかと聞かれると、仕事中だと言って嘘をつくことがありました。それに、私は他人の富をむやみに切望するべきではないと良く分かっています。しかしならが、他人が無くした価値のある物を見ると、それを自分の物にしたくなることがたまにあります。更に酷いことに、主は私たちに女性を見てもみだらな気持ちを抱いてはいけないと教えてくださったにもかかわらず、私は美しい女性を見るといつも良からぬことを考え、それを抑制できずにいます。枚挙に暇がありません。こういった状況の中で、私はいつになったら真の悔い改めができるのか、そしてもう罪を犯さないために何をするべきなのかさっぱり分かりませんでした。たまに、私は仲の良かったクリスチャンの友人たちと自分の状況について話ましたが、自分たちが同じ困惑を抱えているとは思いませんでした。これ故に、私はこう思いました。「この問題を書き出しておいて、後で牧師を家に招待できる時に聞いてみたら、答えが分かるかもしれない。」

2017年4月、ある牧師が私たちの教会に説教をしにやってきました。その当時、彼はヨハネの黙示録の預言について語りました。彼は、主が来られる日が迫っており、近々大きな災害が発生し、言葉を絶するようなありとあらゆる災難が起ると言いました。私はヨハネの黙示録の預言に関する説明を聞くのは初めてだったので、とても熱心に聞き入りました。次いでこの牧師は、世の終わりの災害を逃れたければ生まれ変わらなければならないと言いました。真に再生して救われた者だけが天国に入れるからです。再生の真理に関する牧師の説教を聞いた私は、罪を一掃する一縷の希望があるように思えました。これ故に、私は福音集会の最終3日間は一日も逃さずに毎日教会に説教を聞きに行きました。しかし、福音集会が終了した後、私はヨハネの黙示録に関する牧師の説教は生まれ変わる道の探求を熱望させてくれはしたものの、それは自分が罪を犯してしまう問題を解決するための道は示してくれていないように感じました。教会の兄弟姉妹たちが彼に残ってもっと説教をしてほしいとお願いした時、彼は現在多忙過ぎると言ってそれを断り、翌年の同じ時期まで先送りにしてしまいました。牧師がこう言ったのを聞いて、私の心の中の興奮はあっと言う間に冷め止んでしまいました。彼は大きな災害が近々降りかかってくると言いましたよね?彼が来年戻って来てそれについて語ったとしても、もし彼がくる前に災害が起きて、まだ私たちは完全に悔い改められていないとしたら、その時私たちはどうすれば良いのでしょう?「少なくとも私たちに進むべき道を指し示してくれればいいのに!」と思いました。しかし、私は教会にいる単なる平凡で普通の信者に過ぎないし、牧師と言葉を交わすにふさわしい者でもないので、悔い改めと再生に関する疑問について詳しく話して欲しいとお願いする資格などないのです。

これを理由に、私は思わず溜息をついてしまいました。「ああ、主よ!私は素質が乏しい故に聖書がよく理解できません。あの牧師の説教を聞いている間、私は彼を称賛し、彼の説教に魅了されました。しかしその後ですら、私は実践するべき道が分かりません。ああ、主よ!私はあなたが来られる日が近いことを信じています。私はあなたが来られる前に完全に悔い改めることができていなかったら、祝福の代わりに不幸を被ってしまいます。ああ、主よ!私はこのまま罪を犯し続けるのでしょうか?聖書を完全に理解するまで待てば、罪を犯す問題は解決するのでしょうか?」

主は私がすべきことを知っておられました。5月のある日、私の友人の1人が彼の所に説教師に会いに来るよう誘ってきたので、私は喜んでその約束をしました。私は彼の家でリー兄弟と出会いました。とても若い彼を見て私はびっくりしました。なぜなら、私は説教師は皆もう少し年上であるイメージを持っていたからです。

私がそれ以上考える前にリー兄弟は私にこう聞いてきました。「兄弟、私はあなたは幼い頃から主を信仰している熱心なクリスチャンだと聞きました。質問なのですが、クリスチャンと聖徒の間には何か違いがあると思いますか?あなたの理解を話してくれませんか?」

私は、「はい、違いはあります。聖徒は神聖で罪を犯さない人のことを指します」と言いました。

リー兄弟はまたこう聞いてきました。「そうしたら、心を清めてもう二度と罪を犯さないようにするために、私たちはどのように振る舞うべきでしょう?」

私は、「それは全く分かりません。私もその答えを探しているのです」と応えました。

リー兄弟は続けてこう言いました。「聖徒になり、もう二度と罪を犯さないようにする方法は正に1つや2つの文章で明確に説明できる疑問ではありません。なので、ゆっくりと話し合いましょう。」

私はリー兄弟が罪から解放される方法について交流をしてくださると言ったのを聞いて、即座に興味を持ちました。その夜、リー兄弟はあまり喋りませんでしたが、彼の交流した各問題は私の状態と欠陥に向けられており、私は彼の交流をとても新鮮に感じました。翌晩、リー兄弟は動画を再生し、それと聖書を組み合わせて交流してくれました。私はそれをとても斬新だと思いました。福音映画の中に見た討論はとても激しく、非常に魅力的で、リー兄弟の交流もまた合理的かつ根拠が堅いものでした。そして3日目の夜のことです、リー兄弟は聖書と動画を組み合わせて、オリーブ山は既に裂けており、イエス様は既にもう一度受肉され、裁きと清めの働きの段階に着手されていると証ししたのです。主の再臨の知らせを聞いた私はとても驚いて興奮しました。私は主が本当にお戻りになられたことを完全に確認することはできませんでしたが、リー兄弟の交流は聖書に基づいていたため疑う余地はないと感じました。その後、私は家に帰ってから動画をしっかり見て物事を明確に調査したかったので、リー兄弟に動画をいくつかダウンロードして欲しいと頼みました。しかし、4日目が来た時、説教を聞きに来た現役兵士の友人数人は突然所属している部隊に呼び戻されてしまいました。そしてリー兄弟も予期せぬことが起ってその場を去ってしまいました。彼らは急いで去って行ったため、私たちはお互いに連絡が取れなくなってしまいました。元々私に説教を聞きに来るよう誘ってくれた友人までが所属する部隊に戻ってしまったので、私に終わりの日の神の働きを交流し、それを私に証ししてくれる人がいなくなってしまいました。

このような状況に直面し、私はとても驚き心細く感じました。なぜなら、私は神が肉に戻られる時になさる働きを未だ完全に確信できていないにもかかわらず、その探求方法が突然失われてしまい、私は妙に虚しくなり、途方に暮れてしまったからです。私はこう思いました。「主の再臨の知らせを聞いても、愚かな乙女のように花婿を迎えられずドアの外に閉め出されてしまっては、大損を被ってしまうのではないでしょうか?しかし、私は主の再臨の知らせを完全に信じることができないし、主の新たな働きを確信できでもいませんし、まして再臨された主について行く方法などなおさら分かっていないのです。私はダウンロードされた動画をいくつか手に持っていましたが、交流してくれる人がいないので、私はこれらの動画の明確な理解が得られず、曖昧で漠然とした考えしか持てませんでした。

およそ半月後、友人の1人が私に会いに来ました。彼は熱心なクリスチャンでした。私は彼に主の再臨について聞いた内容と心の中の困惑について話し、そして神の働きを一緒に調べてもらおうと彼に動画もいつくか見せました。彼は動画を見た後、強い興味を示してこう提案しました。「今は情報化時代です。どんな情報でもインターネットにアップロードされます。主の再臨は本当に偉大な出来事ですから、それに関する情報がウェブサイト上にあるはずです。インターネットを検索してみましょう。」私は彼の提案は合理的だと思い、そうしてみようと思いました。その数日後、彼はFacebookでイタリアにいる東方閃電の信者リー・ジエ姉妹を見つけたと言って私にメッセージを送ってきました。彼は北京語に精通していなかったので、私にまず彼女を友達リストに追加して、中国語で会話をしてから分かったことを彼に伝えて欲しいと言いました。私は彼のメッセージを読んだ後、すぐにリー・ジエ姉妹を彼の友達リストから検索し、彼女に友達リクエストを送りました。これと同時に、私は終わりの日の神の働きを完全に調べる準備もしました。

私の友人がリー・ジエ姉妹に予め連絡していたので、彼女は私を友達リストに追加したらすぐに私の神への信仰について質問してきました。そして、私も単刀直入に切り出しました。「姉妹、主がどのように戻られ、どのような方法で再臨されるかご存知ですか?東方閃電はイエス様の再来なのですか?」リー姉妹は全能神の御言葉の次の節を送ってくれました。「イエスが人の世に誕生した時、イエスは恵みの時代をもたらし、律法の時代を終わらせた。終わりの日において神はもう一度肉となり、今回人間の姿になった時、神は恵みの時代を終わらせ、神の国の時代をもたらした。神の二回目の受肉を受け入れる人々はすべて神の国の時代に導かれ、直接神の導きを受け入れることができるだろう。イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。」(「序文」より)私は、神の御言葉を聞いて、それは終わりの日に神は救いの働きを更に進めるためにもう一度受肉されると明確に表している感じがしました。

そして、リー姉妹はこう言いました。「イエス様は最初に来られた時は十字架に磔にされて人類の罪を贖う働きのみなさりました。すなわち、主は大きな犠牲を払って私たちをサタンの手から救い出してくださったのです。しかし、私たちの内には依然として堕落した性質が存在しています。それ故に私たちは未だに頻繁に罪を犯し、神に抵抗し、罪を犯しては告白し、告白したら罪を犯すというサイクルの中を絶えず生きているのです。これが紛れもなく主の信者全員が送っている堕落生活なのです。したがって、神はもう一度受肉して裁きと清めの働きをする必要があり、それはまさにこのイエス様の御言葉を現実化しているのです。『たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。』(ヨハネによる福音書12:47-48)終わりの日に、神は、私たちがキリストの御国に入れるよう、自ら肉となられ、御言葉を表して私たちの堕落を裁き、明らかにされ、そして御言葉を使って私たちを真理が理解できるように導いてくださり、さらに私たちが徐々にサタンの堕落した性質から離れ、清らかになるのをお助けくださるのです。」

この言葉を受けて、私はこう思いました。「私は長年に渡ってイエス様を信仰してきたのに、今まで一度も罪の束縛から脱出できず、むしろ何の真理を理解することもなく、未だに頻繁に罪を犯してそれを告白するという状態の中を生きている。私がやってきたことは多数派に従い、ただ集会に参加していただけ。こんな私に天の御国に入る資格があるわけがないのです。」神が救いの働きを先に進めるために受肉されていなかったら、私が自力で罪の問題を解決するのは正に不可能です。それに、イエス様は一度こう言っておられました。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネによる福音書14:6)。私は今この御言葉について考えて見ると、それは神が終わりの日に人間を完全に清める働きをするために受肉される場合に限って、私たち人間は天の御国に入れると黙示しているように感じました。

そして、リー姉妹は神の御言葉の他の2節を送ってくれました。「あなた方のように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む――あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである。」(「呼び名と身分について」より)「裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、清くされることができる。」(「受肉の奥義(4)」より)

姉妹は続けて交流しました。「イエス様は人間のいのちの性質を変える働きをされていないので、私たちの内にある傲慢さ、身勝手さ、偽り、貪欲さ、邪悪さ等、すなわち、私たちの堕落した性質は未だに残ったままで、清め変えられていないのです。罪を犯し、神に抵抗するいずれの者は清らかな心を持っておらず、サタンに属しており、最終的には神から罰を受ける対象となります。これ故に私たちは終わりの日の神の裁きの働きを受ける必要があるのです。私たちは神の御言葉による裁きと刑罰を通じて自分たちの堕落に関する認識を得て、自分たちがサタンに酷く堕落させられて耐え難いほど醜くなってしまったことを知り、それにより自らを嫌い、肉に背き、そして神を崇める場合に限って神に背いたり、抵抗するのを止められるようになるのです。こうしてのみ、私たちは着実に清められ、神の御国に入る資格を得ることができるようになるのです。全能神の働きはまさに、大きな白い御座の前で行なわれる裁きの働きなのです。終わりの日の神の御言葉による裁きを受け入れる者は誰もが神の御言葉によって清められ、そして完全にしていただくために、神の御座の前で引き上げられていきます。最終的に、彼らは神の御言葉から真理を得て、自分たちの堕落を完全に捨て去ることができた時、完全に清められたことになります。この人々は、終わりの日に災害が降りかかる時、神の素晴らしい御加護を授かります。これについて聖書には、「たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。」(詩篇91:7)と書かれています。この人々は神から救われた人々であるため、災害には遭いません。そして彼らは神の御国で神の祝福を授かるのです。」

次に、全能神教会の兄弟姉妹たちは、私に神の3段階の働き、受肉とは何か、神は終わりの日にどのようにして裁きと清めの働きをされるか等、更なる真理に関して詳しく交流をしてくれました。これにより、私は東方閃電は正に真の神の働きであること、そして全能神は間違いなくイエス様の再臨であることを完全に確信にしました。私は真に清められる道を発見し、子羊の足跡を辿り、真の悔い改めと再生の道を歩み、そしてこれはまた終わりの日に大きな災害を免れる唯一の方法でもあります。これは全能神による御救いのおかげです。全ての栄光、全能神にあれ!

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