ここ数年、地震、飢饉、疫病などの災害がますます多くなり、聖書の中の主の再来に関する預言は既に実現され、真心で主の出現を切望する多くの兄弟姉妹は、主が戻られたかもしれないと感じています。しかし、なぜ今、私たちはまだ主を迎えていないのか。主はいったいどこにおられるのか。私たちはどのように主の出現を探し求めるべきか。この話題に言及したら、ある人は、今主はまだ戻られていないので、探し求める必要がない、なぜなら聖書にはこう書かれています。「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マタイによる福音書24:30)主が戻られる時に雲に乗って降臨され、気勢がすさまじく、今これらの光景はまだ現れていないので、主がまだ戻られていないことを証明していると思っています。
今二つの違う考えがあります。では、主はいったい戻られたのか。主が再来の時にどのように人間に現れるのか。私たちは主が雲に乗って来られるのを待って、神様の出現を見て主を迎えることを保証できるのか。これらの問題に対して、私たちは一緒に交流しましょう。
多くの兄弟姉妹は聖句「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう。」(使徒行伝1:11)に基づいて、主イエスが復活されて天に上った時に雲の乗って去り、主が再来される時にも、復活された霊体で雲に乗って来られ、主が雲に乗って降臨される光景を見ていない限り、主がまだ来られていないことを意味すると思っています。しかし、私たちのこのような理解の仕方は完全に神様の心にかなうと保証できますか。ヤーウェ神は言われました。「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっているとヤーウェ神は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ書55:8~9)神様の知恵は天より高く、私たち被造物である人間はどうして神様の働きを推し測ることができようか。終わりの日に主はいったいどのように現れて働かれるかについて、私たち人間はこれを決めつけるべきではありません。当時聖書にメシアが来ると預言され、結局主イエスが来られたように、これは私たち人間が想像できるものでしょうか。当時のパリサイ人は傲慢で高ぶり、自分の観念と想像に固執したため、神様に抵抗する人になりました。主イエスの言葉と働きにはどれほどの権利や力をもっていても、彼らはひたすらに観念と想像に基づいて神様の働きを決めつけ、メシアが来られて権力を担うので、きっと王の宮殿に生まれ、そして外見が威風堂々としていると思っていました。そのため、彼らは主イエスが普通のユダヤ人であり、名前もメシアと呼ばず、王の宮殿に生まれなかったことを見たとき、主の働きを拒絶して受け入れなかっただけでなく、ひいてはローマ政府と共謀して主イエスを十字架に釘付けにしてしまい、最後に神様の懲罰を受けたのです。しかし、パリサイ人はどのように主を罪に定めても、主に抵抗しても、主イエスが現れて働かれたことは事実であり、そして全人類を贖う働きを完成させたのです。ゆえに、神様の出現と働きであるかどうかは、人間が認めるかどうかによって決まるのではなく、神様の働きの事実に基づくのです。今、災害が頻発しており、イスラエルが戻り、四つの血の月は既に現れ、これはまさに主の再来の預言を実現しています。もし、主は既に戻って来られたら、私たちはまだ消極的に主が雲に乗って降臨されることを待っていて、パリサイ人が主イエスに抵抗したことと同じ誤りを簡単に起こしてしまうのではないか。神様が言われた通りです。「あなたがたにもう一度問う。あなたがたが全くイエスを理解してこなかったことを考えれば、最初のパリサイ人たちと同じ誤りを簡単に起こしてしまうのではないか。あなたは真理の道を識別することはできるのか。あなたがキリストに逆らわないとあなたは本当に請け合えるか。あなたは聖霊の働きに従うことができるのか。自分がキリストに逆らうかどうかがわからないのなら、あなたは既に死ぬぎりぎりのところに生きているとわたしは言う。メシアを理解しなかった人々は皆、イエスに逆らい、イエスを拒絶し、イエスを中傷することができた。イエスを理解しない人々は皆、イエスを否定し、イエスをののしることができる。そればかりか、彼らはイエスの再臨をサタンの惑わしとして見ることができ、さらに多くの人が受肉し再来したイエスを非難するであろう。これらのことのせいで、あなたがたは恐ろしくならないのか。」
実は、終わりの日に主はいったいどのように来られるかについて、聖書には雲に乗って降臨される預言以外に、密かに降臨される預言もあります。例えば、「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書25:6)「もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。」(ヨハネの黙示録3:3)「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録3:20)これらの聖句は「夜中に叫ぶ声がした」「盗人のよう」と言及し、これは主が再来される時にこっそりと来られ、密かに人の間に降臨され、言葉で私たちに戸を叩くことを示しています。もし、終わりの日に主が雲に乗って降臨され私たちに現れるなら、これらの預言はまたどのように実現されるのか。もし、主が雲に乗って降臨されるなら、まだ人に戸を叩く必要があるのか。もし、主が雲に乗って主を信じるすべての人に現れるなら、すべての人があえて抵抗できず、みな主の御前にひれ伏すのですが、聖書に預言された主が再来される時に、毒麦と麦、ヤギと羊、愚かな乙女と賢い乙女を分ける働きをどのように成就されるのか。そのため、私たちは一節また二節の預言に基づいて、主の再来は白い雲に乗って私たちに現れると決めつけてはいけません。このようにして容易に神様の意図を誤解してしまうのです。
つい先ほど、私たちは聖書の預言に基づいて、主の再来のもう一つの方法は密かに降臨されることに言及しました。では、私たちは神様の出現をどのように探し求めるべきでしょうか。主イエスは言われました。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネによる福音書10:27)また『ヨハネの黙示録』の多くの箇所に預言されています。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録第2、3章)主の言葉とヨハネの黙示録の預言から分かるのは、主の現れを探し求めることにおいて、消極的に主が雲に乗って降臨されるのを待ってはいけません。神様の声を聞くことを学び、諸教会に向けた聖霊の言葉を探し求めるべきです。神様はどう言われるかを一緒に読んでみましょう。「神はどこに現れるのか。神の足跡はどこで見つかるのか。そうした疑問に対する答えは見つかっただろうか。そうした問いに対して、次のように答える人が多い。「神は自分に聞き従う人々に現れ、神の足跡は私たちのただ中にある。そんなに難しいことではない。」決まり切った答えであればだれにでも言える。だがあなたがたは、神の現れとは何かを、神の足跡とは何かを本当に理解しているのか。神の現れとは、神が仕事を行うためにみずから地上に来ることである。神としての身分と性質は保ったままで、また神自身の方法で、神は時代を始め、時代を終わらせるために人間世界に下ってきた。このような神の現れは儀式のようなものではない。それは何かのしるしでも、絵画でも、奇跡でも、大いなる幻でもない。ましてや宗教的な儀式でもない。それは、実際に手で触れ、見ることのできる動かしがたい事実である。このような神の現れは何かの手順を踏むためのものでも、短期間の仕事のためのものでもない。それは、神の経営(救いの)計画の中にある一つの段階を実現するためのものである。……
……神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは『神は真理であり、道であり、いのちなのです』という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちだろうか。神の現れは人が思うようなかたちで来ることはない。ましてや神が人の言うままに現れるようなことはない。神は、自分の判断で動き、自分の計画に従って働く。さらに、神には神自身の目的と方法がある。神は自分のしようとすることを人に相談したり話し合ったりする必要はない。ましてや一人一人に自分がしようとすることを知らせるようなことはない。これが神の性質であり、それはすべての人が認めるべきことである。」
神様の言葉から私たちが分かるのは、神様の現れをその目で見たいと思うなら、神様の足跡をたどりたいと願うなら、神様の語られた言葉を探し求めるべきです。以前、私たちは神様の現れを目で見るのは、主が霊体で白い雲に乗って突然私たちに現れることを指していると思っていました。実際のところ、神様が人間に姿を現すことは何かのしるしではなく、短期間で人間に現れることでもありません。神様が自ら人間の間に降臨されて人類を救う働きをなさり、古い時代を終わらせ、人間に真理を与えられ、人間を新しい時代へと導かれるのです。そのため、私たちは神様の語られた新しい言葉を見つけたら、神様の声を聞き、神様の出現を目で見ているのです。主イエスが現れて働きをなさった時のように、律法の時代を終わらせ、新しい時代を開かれ、悔い改めの道を語られ、人間に罪を告白し、悔い改め、寛容や忍耐、敵を愛するなどを教えてくださり、また天国の奥義、天国に入る条件を明らかにされるなどです。例えば、「悔い改めよ、天国は近づいた。」(マタイによる福音書4:17)「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書7:21)これらの言葉は私たちがどのように天国に入るかにかかわるのです。聞いたら、とても奥深く、権威と力があり、人間には話すことができないと感じ、受肉された神様が地上で語られた言葉です。それらの主イエスの説教を聞いて、神様の声であることが分かり、主イエスの働きを受け入れる人は、神様の出現を目にし、神様の足跡をたどっているのです。しかし、それらの律法に固執し、ただメシアの到来だけを待つ人は、主イエスの語られた言葉を聞いても、主イエスの行われた奇跡は人間にはできないことを目にしても、神様の出現だと認めません。かえって、主イエスが神様を汚し、悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出していると裁き、罪に定めました。これらの人は神様の声を聞き分けないので、愚かな乙女であり、神様に露わにされ排除される対象です。したがって、私たちは主の現れを迎えるには、神様の声に注意を払って慎重に聞くことが肝心です。主イエスは既にご自身が再来される時にまた真理を語られると預言されました。例えば、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12~13)「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書12:48)またヨハネによる福音書17章17節にこう書かれています。「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。」ペテロの第一の手紙4章17節にこう書かれています。「さばきが神の家から始められる時がきた。」これらの聖句から分かるのは、主が再来される時に、私たちの霊的背丈によって、恵みの時代より多く、より高い真理を語られ、つまり「御霊が諸教会に言うこと」を語れて、そして神様の家から始まる裁きの働きをなさり、神様の語られる真理を用いて私たちの堕落した性質を清め、私たちが罪の束縛から解放され、清められて天国に入ることができるようになります。そのため、私たちは主の現れを迎えることにおいて、当面の急務は諸教会に向けた聖霊の言葉を探し求めるべきです。
では、私たちはどこで諸教会に向けた聖霊の言葉を探し求めるのか。実際のところ、主は既に戻られ、終わりの日のキリスト全能神であり、既に受肉されて人の子として中国で現れて働かれ、人類を清め、救うすべての真理を語られ、神様の家から始まる裁きの働きをなさり、恵みの時代を終わらせ、神の国の時代を開かれました。今、全能神の神の国の福音は既に西方に広がり、全能神の言葉は20カ国あまりの言葉に翻訳され、インターネットに載せ、全人類が尋ね求め、考察するのに提供しています。これはまさに聖書の預言「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書24:27)の実現です。終わりの日に、全能神が神様の六千年の経営(救い)の働きの奥義を明らかにされ、私たち人類が神様に抵抗する罪を犯す根源を露わにされ、また私たちに清められ、救われる道を指し示してくださり、これらの真理は真の光であり、東から西にひらめき渡るのです。一緒にいくつかの全能神の言葉を読み、これらの言葉は真理であるかどうか、神様の声であるかどうかを見てみましょう。
全能神は言われます。「わたしの何年もの働きのあいだ、人間は多くを受け、多くをあきらめてきたが、それでも人間は真にわたしを信じていないとわたしは言う。なぜなら、人間はわたしが神であること口先では認めはするものの、わたしが話す真理には異議を唱え、わたしが彼らに要求する真理の実践を行なうことなど尚更ないからである。つまり、人間は神の存在だけを認め、真理の存在は認めない。神の存在だけを認め、いのちの存在は認めない。神の名だけを認め、神の本質は認めない。その熱心さゆえに、人間はわたしにとって嫌悪するべきものとなった。人間はわたしを欺くために、耳に心地よい言葉を使うだけで、わたしを真の心をもって礼拝する者はいないからである。あなたがたの言葉には、蛇の誘惑がある。さらに、それは極端なまでに不遜で、まさに大天使の宣言そのものである。その上に、あなたがたの行いは不名誉なほどにボロのように破れている。あなたがたの過度の欲望や貪欲なもくろみは聞くに堪えない。あなたがたは皆、わたしの家の蛾、嫌悪をもって捨て去られる対象になった。あなたがたの誰も真理を愛する人ではなく、むしろ祝福を欲し、天に昇ることを欲し、キリストが地上でその力を振るう荘厳な光景を見ることを欲する人だからである。しかし、そこまで深く堕落し、神が何であるかを全く知らないあなたがたのような人が、どうして神に従うに値することがあり得るのかを考えたことがあるのか。どうして天に昇れるというのだろうか。壮麗さにおいて前例のないその荘厳さを見るのに、どうして値することがあり得るというのか。」
「神に対するあなたの信仰の目的は、あなた方自身の目標を達成するために神を使うことである。これは神の性質に背いたことを表すさらなる事実ではないか。あなた方は天の神の存在は信じ、地上の神の存在を否定するが、私はあなた方の見方を認めない。私は地に足を着け地上の神に仕える人だけを賞賛し、地上のキリストを認めようとしない人は決して賞賛しない。そのような人は、どれほど天の神に忠実であろうとも、最後は悪人を罰する私の手から逃れられない。このような人は悪人である。彼らは神に敵対し、キリストに喜んで従ったことのない邪悪な者たちである。無論、キリストを知らない者、さらにはキリストを認めない者もみなこれに含まれる。」
「わたしはあなたがたに言う。しるし故に神を信じる者は、滅ぼされる部類であることは確かである。肉に戻ったイエスの言葉を受け入れることができない者は、地獄の子孫であり、天使長の末裔であり、永遠の破滅を逃れることのできない部類である。多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。おそらく、その時あなたにとって大いなる興奮の時となるであろう。だが、あなたがイエスが天から降臨するのを見る時は、あなたが地獄へ落ち、懲罰を受ける時でもあることをあなたは知るべきである。それは神の経営(救いの)計画の終わりを告げるものであり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人間がしるしを見る前に、真理の現れだけがある時には終わっている。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主の胸に抱かれる。『白い雲に乗らないイエスは偽キリストだ』という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し真のいのちの道を解き放つイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に取り扱うしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、傲慢である。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか。」
全能神のこれらの人を裁き、露わにされる言葉を読んで、真の心と霊がある兄弟姉妹は、皆神様の言葉の権威と力を感じ、神様の義なる性質の現れを目にすると思います。全能神の言葉は私たちの真理を憎み、貪欲、偽り、横柄で傲慢などの堕落した性質、また信仰において誤った観点を明らかにされます。以前私たちは自分が苦労して働き、すべてを捨て苦しみを受けることができ、神様を愛する人であると思っていました。神様の言葉の裁きを受け入れることを通して、私たちは自分の性質は極めて傲慢であり、神様の出現と働きが私たちの観念と一致しないとき、あえて観念と想像によって神様の働きを決めつけてしまうのです。同時に、私たちの神様への信仰が極めて不純であり、真理を得て、神様の愛に報いるために神様を信じるのではなく、祝福を得て災害から逃れて天国に入るためであることに気づきました。私たちは神様のために自らを費やしますが、私たちは神様への本当の従順、本当の愛がありません。神様が祝福してくださる時、私たちは進んで神様のために自らを費やします。しかし、患難や試練に臨む時、私たちは自分を制御できずに神様に不平を言い、ひいては神様を疑い、否認します。これらの言葉の裁きがなければ、私たちは自己を少しも知らず、自分を称賛さえし、自分が既に神様を愛し、神様に従順な人であり、主が再来される時に直接引き上げられて天国に入れると思っています。しかし、神様の言葉の裁きを受け入れてから、私たちは神様がとても聖くて義なるお方であり、神様を信じることにおいて、罪から抜け出すために真理を追求せず、祝福と恵みを得るために神様を信じるのは、神様を利用し、神様の性質を犯すことであるのを感じました。再び自分が神様に従順な人だと大言せず、自分が深く堕落している人であることを感じ、速やかに真理を追求し、肉に背き、堕落した性質から抜け出すべきです。同時に私たちは、終わりの日のキリストが語られた真理をもって人を裁く真摯な意図を理解し、神様の人を裁く言葉は厳しいですが、皆より私たちが自分を反省し、真の悔い改めと変化に達するため、神様の義なる性質は神様の私たちへの憐れみが含まれておられます。私たちが神様の裁きと刑罰を経験しなかったら、永遠に自分がどれほどサタンに深く堕落させられたかを見極めることができず、永遠に神様の義、威厳、背くことの許されない性質を認識できず、神様への敬う心を生み出すこともできず、永遠に罪の束縛から抜け出し、真の神様に順従な人になることもできません。もし、神様が受肉されて言葉を語られなかったら、誰かの言葉が背くことの許されない聖く義なる神様の性質を表すことができるのか。誰かが言葉を語って私たちの堕落した本質を裁き、明らかにすることができるのか。終わりの日に全能神が人を裁き、人を清めるすべての真理を語られ、神様ご自身の身分と地位が完全に明らかにされ、人類に対して裁き、罪に定めることであり、清め、救いでもあります。終わりの日に、神様は災害の前に言葉によって神様の出現を切望する人々を探し求めるのです。ノアの時代のように、神様は災害が降りかかる前に、人を救うためにノアに福音を伝えるように命じられ、福音を受け入れ、神様の言葉を信じる人々は生き残り、ノアの八人家族が神様の言葉に聞き従い、順従に箱舟に入り、最後に生き残りました。しかし、それらの事実を見ていない、信じない人々は洪水に滅ぼされました。終わりの日に、終わりの日のキリストの言葉の裁きを受け入れる人々は、清められ変化され、災害の前に神様に勝利者にされ、神様に次の時代へと導かれて、神様の祝福と約束を受け継ぐことができます。神様が勝利者の群れを作られた後、神様は大きな災害を注ぎ、善人をねぎらい、悪人を懲らしめ、雲に乗って公然と人間に現れ、それらの主が雲に乗って降臨されることだけを待ち、神様の密かにされている働きを拒絶する人々は、災害の中に落ち、懲罰を受け、歯ぎしりして泣き、これはまさに聖書の預言「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(マタイによる福音書24:30)を成就されています。
それでは、私たちはどのように神様の終わりの日の働きを扱うならば神様の心に適うのでしょうか。全能神は言われます。「イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大いなる救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。あなたがたは自分自身の道を選ぶべきで、聖霊を冒涜したり真理を拒んだりするべきではない。あなたがたは無知で傲慢な者でなく、聖霊の導きに従い真理を慕い求める者にならなければならない。そうすることでのみ、あなたがたの益となる。わたしは、注意深く神への信仰の道を歩むようにあなたがたに助言する。結論を急いではならない。さらに、あなたがたは神への信仰において、無頓着であったり、のんきであってはならない。少なくとも、神を信じる者は謙虚で畏敬の念に満ちているべきだということを知らなければならない。真理を聞いたことがありながら鼻であしらうものは愚かで無知である。真理を聞いたことがありながら不注意に結論を急いだり非難したりする者は、おごりで包まれている。イエスを信じる者は誰も、他人をののしったり非難したりする権利はない。あなたがたは皆、理知があり、真理を受け入れる者でなければならない。真理の道を聞き、いのちの言葉を読んだのち、自分の信念と聖書に沿っている言葉は一万語にひとつだと信じているかもしれない。そうであれば、その一万分の一の言葉の中で求め続けなければならない。それでもわたしはあなたに謙虚であり、自信過剰にならず、思い上がらないようにと助言する。あなたの心が抱いている神へのわずかな畏敬の念から、より大きな光を得ることになる。もしあなたがこれらの言葉をよく吟味し、繰り返し思い巡らすならば、それらが真理かどうか、それらがいのちかどうかが分かるであろう。」全能神の言葉には神様の私たちへの期待が含まれ、神様は私たちが神様の終わりの日の働きに直面するときに、まず観念や想像によって決めつけずに、一人の謙虚で真理を尋ね求める人になり、神様の語られた真理を聞き、神様の声であるかどうかを尋ね求めることを求められています。こうして私たちは主の現れを迎えることができます。そうでなければ、この数年間私たちは神様を信じてきて、主の迎える機会を逃れてしまい、後悔しても後の祭りになるしかありません。
ここ数年、災害がますます多くなり、聖書の中の主の再来に関する預言は既に実現され、なぜ私たちはなかなか主が雲に乗って降臨されるのを見ていないのか。主は戻られたのか。主の再来はいったいどのように人間に現れ、私たちはどのようにして主を迎えることができるのか。この文章を読んで理解しましょう。