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一度救われたら、永遠に救われるというのは本当か

聖書にこう書かれています。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(ロマ10:9-10)。多くの人はきっとこの二節をよく知っています。聖書のこの言葉のゆえに、多くの人は自分が主の御名を呼び、心の中で主イエス・キリストを信じることが、自分が救われたこと、しかも自分が一度救われたら永遠に救われ、もはやほかの救いを受け入れる必要がなくなることを意味している、と思っています。では、このような観点は神の働きについての事実に合いますか。一度救われたら永遠に救われるというのは本当ですか。

真理を求めることによって、わたしは旧約聖書には「救い」についてこう述べられているのを見ました。「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」(ヨエ3:5)。「主は油注がれた者の力、その砦、救い。お救いください、あなたの民を。祝福してください、あなたの嗣業の民を。とこしえに彼らを導き養ってください」(詩28:8-9)。この二箇所から分かりますが、律法の時代では、ヤーウェ神の御名を呼び、律法を守ったら救われました。律法の時代での神の仕事、およびこの仕事によってもたらされる効果を見れば、わたしたちは律法の時代で述べられている「救われる」がどういう意味かが分かります。周知のように、最初の人類は罪とは何かを知らず、人を殺し、みだらなことをし、姦淫し、近親相姦をし、偽りの神を拝んでも全然恥ずかしがらず、また良心のとがめを受けません。だから、ヤーウェ神は十戒と六百あまりの律法を発布されました。その目的は、最初の人類が罪とは何か、どんなことをすれば神に憎み嫌われ、打ち殺されるかを知ることです。イスラエル人はヤーウェ神の定めた律法と戒めのゆえに、神が何を憎み嫌うか、何が好きかが分かりました。そのため、彼らはことを行う時、神の要求にしたがって行うことができました。神の言葉を聞き、ヤーウェ神の律法、戒めを守る人たちは自分の信仰のゆえに、神の守りを得るようになり、天から下される火によって焼き殺され、石で打ち殺されることがなくなります。つまり、彼らはヤーウェ神の発布した律法、戒めを守るため、「救われ」ました。あの時の人は罪を犯せば、人の罪を償う燔祭をささげることができました。そうすることによって、彼らは贖われて死を免れました。これは、律法の時代の「救われる」の真意です。

律法の時代の「救われる」と神の働きとの関係を知った後、わたしたちはそれを恵みの時代の神の働きと結びつけて考えましょう。そうすれば、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」という言葉の真意を容易に理解できます。律法の時代の末期、人はヤーウェ神の人に対する要求を知っていましたが、人の堕落した程度がひどくなったため、もう律法を守ることができなくなりました。彼らは悪い動物をよい動物と偽り、盲の動物や、足なえの動物や、最初に生まれたのではない動物をいけにえとして神にささげて、神をごまかしました。だから、あの時の人はもう罪悪の中に生きているようになりました。このままでいけば、人はきっと律法に背くために罪の中に死にます。そういうわけで、主イエスは来られた後、贖いの仕事をし、罪のない聖なる肉体をもってあらゆる人の罪を担われました。それゆえに、わたしたちが主の御名を呼び、主に悔い改めさえすれば、罪の赦しを得ることができます。そうなったら、わたしたちが罪を犯すために律法によって罪定めされて死ぬことがなくなります。こうして、主を信じるわたしたちは主イエスの贖いのゆえに「救われ」ました。これは、恵みの時代の「救われる」の本意です。

主イエスの罪祭を得たら、安全になり、主イエスの再来の時、きっと主と共に宴席に着き、主と共に幸せを享受することができると、多くの人はそう思っています。では、罪の赦しを得たわたしたちが神の一度の贖いのゆえに永遠に「救われる」というのは本当ですか。実は、わたしたちが主イエスを信じることによって罪の赦しを得たことは、わたしたちが罪を持たなくなることを意味しているのではありません。わたしたちの罪性はやはりわたしたちの内側に存在しています。わたしたちはやはり常に罪を犯し、自制できずに、「自分のためを考えてくれない人には、天地の罰が当たる」というサタンの処世の哲学によって生きます。名誉、地位、利益のためには、わたしたちは争い合い、殺し合います。今、人と人は互いに欺き合い、互いに腹を探り合って暗闘します。サタンの哲学によって生きているため、人は利己的で傲慢で狡猾でおごり高ぶり、完全に正常な人性の中の良心、理知を失いました。天災や人災、迫害、患難が起こったら、人は神を誤解し、怨み、しかも神を裏切ります。長年主を信じたとしても、祝福を得ようという意図があり、働き、費やすと同時に神と取引します。人が労苦し、働くのはただ冠を得、天国に入るという祝福を得るためです。わたしたちはいつも主の言葉を実行できず、また全然神を畏れる心を持たないので、罪の中に生きていて、つらくてたまらないのです。そうだとしても、わたしたちは罪の束縛から抜け出す力を持ちません。それはローマの信徒への手紙第7章18節から20節で書かれているとおりです。「善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」。ここから分かるように、わたしたちは主を信じることによって、罪の赦しだけを得、わたしたちの罪を犯すサタン的な本性はずっと解決されていません。わたしたちは罪の中に生きていて、自制できずに罪を繰り返して犯します。こうして、昼間に罪を犯したら、夜に罪を告白するという悪循環に陥りました。罪が支払う報酬は死です。わたしたちの罪が根絶されなければ、わたしたちは永遠に罪に苦しめられ、最終的にわたしたちの犯す罪のゆえに死にます。

では、どんな人が神に救われて天の国に入ることができますか。ヨハネの黙示録第14章5節でこう預言されています。「その口には偽りがなく、とがめられるところのない者たちである」。この節から分かるように、最終的に神の国に入る人はきよくて、とがめられるところがないのです。しかし、わたしたちは汚れていて、毎日罪を犯し、罪を告白します。それではどうして神の国に入ることができるでしょうか。罪祭のゆえに一度で永遠に「救われる」ことが可能だろうか。神は「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」(レビ11:45)と言われました。わたしたちが知っているように、神の本質は聖です。サタンに属するもの、罪に属するものはどうして神の国に残ることができるでしょうか。罪の中に生きている、汚れ、堕落したわたしたちが神に会ったら、神に打ち殺されるのではありませんか。これで分かるように、わたしたちが主イエスの十字架による救いによって、一度で永遠に救われることは不可能です。では、わたしたちはどうすれば本当に神に救われることができますか。わたしたちはまず、聖書にはどう書いてあるかを見てみましょう。「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」(ペテ一1:5)。「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。……」(ペテ一4:17)。「この地のどこでもこうなる、と主は言われる。三分の二は死に絶え、三分の一が残る。この三分の一をわたしは火に入れ、銀を精錬するように精錬し、金を試すように試す。彼らがわが名を呼べば、わたしは彼に答え……」(ゼカ13:8-9)。聖書のこれらの言葉から分かりますが、十字架による救いを得たわたしたちは、終わりの時に現される救い、再来される主の裁き、そして神のさまざまな試練、精錬を受けなければなりません。神の裁き、試練、精錬によってこそ、わたしたちは罪性を取り除き、サタンの暗やみの権威と、利己的だという腐敗したサタン的性質を逃れることができます。そうなったら、人は恵みのために神を信じることがなくなり、神と取引することもなくなり、被造物の本分を尽くして神を礼拝し、真理を追い求め、命を得るために神を信じるようになります。もし、わたしたちの物事を見る観点、わたしたちの人生観、価値観が神の心にかなうようになり、わたしたちは神の義なる性質を認識して本当に神を愛し、神を満足させることができるようになり、堕落した性質が本当に変わった、神に新しく造られる人になるとしたら、わたしたちは精錬された後の、その三分の一の生存者の一員、神に良しと認められ、神に救われて、天の国に入る人になることができます。

ヨハネの黙示録にこう書かれています。「わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。『ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた』。わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである」(黙19:6-8)。神の世の終わりの裁きを受け、神から真理、命を得て、罪悪を脱ぎ捨ててきよくなる人だけが、「輝く清い麻の衣を着せられた」人です。このような人こそ、神から与えられる永遠の救いと、天の国の中に携え上げられる資格を得られます。これで分かるように、「一度救われたら、永遠に救われた」ということは、人の観念、想像であり、全然成り立ちません。わたしたちが神の世の終わりに裁かれず、きよめられなければ、全然天の国に入る資格がありません。わたしたちがずっと自分の観念、想像を守って真理を求めず、神の世の終わりの働きを探求したり、調べたりしないなら、最終的にわたしたちはきっとこれらのもっともらしい宗教的観念によって葬り去られます。これは自業自得です!

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