真の教会と偽の教会を識別する二つの道は、あなたが真の教会を見つけるように導く
- 編集者注:
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今、災害が至るところに起こり、聖書の中にフィラデルフィアの教会だけが災いの前に携挙されると預言されています。携挙される教会こそ真の教会です。では、私たちは真の教会と偽の教会をどのように区別するのか。どのように真の教会を見つけるのか。この文章はあなたを連れて一緒に探究しましょう。
- 真の教会と偽の教会への区別一:教会には聖霊の働きがあるかどうか、信者は真理を追い求めるかどうか
- 真の教会と偽の教会への区別二:教会は真理が支配するものなのか、それとも偽牧者が支配するものなのか
- どのように真の教会を探し求めるのか
主イエスはかつてご自身が戻られる時のしるし、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。」(マタイによる福音書24:7~8)を預言されました。今、災害がますます大きくなり、飢饉、地震が既に起こり、疫病、火災、洪水も続々降りかかっています。例えば、2019年12月に、中国武漢で発生した新型コロナウイルス肺炎は、人を驚かすほど迅速に広がり、僅かな2ヶ月間全世界に蔓延しました。オーストラリアでの森林火災は半年近く燃え続け、数億匹の動物が焼死、その後70万匹のコウモリがオーストラリアの各都市に侵入しました。東アフリカで25年ぶりの最も深刻な蝗害に遭遇し、数千万人が糧食の危機に直面しました。今年1月7日に、プエルトリコで102年以来最も強い地震に襲われ、全国三分の二の地域が停電の状態になりました。1月28日に、北アメリカのカリブ諸島で7.7震度の地震が起こりましたなど。これらは皆、主の再来の預言が既に実現されたことを示しています。多くのクリスチャンは皆、主が既に戻られたはずだと思っています。
私たちは知っている通り、主が再来される時、聖書の中にフィラデルフィアの教会だけが災いの前に携挙され、ラオデキヤ教会が主に捨てられる教会だと預言されています。言い換えれば、私たちは災いの前で携挙されたいなら、神様の心に適う教会を見つけるべきです。多くの人は牧師の説教は光がなく、信者の信仰心が冷え、飲食と快楽を論じ合い、世界の流れに従うことを見て、教会堂が偽の教会であるなら、主が再来される時に捨てられるのを心配しています。しかし、ある人は教会堂が人気かつ盛んであり、聖書の知識の競争活動、聖餐、パンをさく会を開き、いろいろな祝日の祝いで雰囲気がとても活気があり、偽の教会であるはずがないと思っています。それでは、私たちは真の教会と偽の教会をどのように区別するのか。どのようにして真の教会を見つけるのか。次はこれらの話題について交わります。
真の教会と偽の教会への区別一:教会には聖霊の働きがあるかどうか、信者は真理を追い求めるかどうか
聖書にはこう言われています。「今わたしはわたしの名をながくここにとどめるために、この宮を選び、かつ聖別した。わたしの目とわたしの心は常にここにある。」(歴代志下7:16)また主イエスは言われました。「また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」(マタイによる福音書18:19~20)ここから分かるのは、真の教会は聖霊の働きがある教会であり、真心で神様を信じ、真理を追い求める人によって構成され、ある程度は真理を慕い求める人です。彼らはあらゆることに置いて神様の意図を尋ね求めることを重視し、神様の言葉を実践して経験し、神様の心を満足させることを追い求め、そのため、必ず常に聖霊の働きを得られるリーダーであり、集会や交わりは聖霊の啓示と照らしがあり、いのちが絶えず成長し、そして誤った時、神様の叱責と鍛錬が伴い、神様への敬う心を持っています。当時の神殿のように、ヤーウェ神の栄光に満ちているから、人々は敢えて勝手気ままに悪事を働かず、ヤーウェ神に対して敬う心を持ち、神殿の中で規律正しく神様を礼拝し、誰もが敢えて律法に背くことができませんでした。このような教会の中で集会をすれば、人々の信仰心といのちが成長を続けるのです。偽教会では必ず聖霊の働きがなく、牧師の説教は昔のことを蒸し返して、新しい光がなく、信者は真の注ぎと供給を得られないので、皆弱くなって消極的になり、信仰心が冷え、集まってもどのように神様の言葉を実践するかを交わらず、皆が真理と関係ないことを論じ合い、名目だけの信仰であり、このような教会は神様の承認を全く得られないのです。
今多くの教会堂に、牧師や長老たちが説教するものは皆が聖書の知識、霊的理論で、信者の実際の困難を全く解決できません。集会をする人がますます少なくなり、信者はお金を稼ぐことに忙しく、官能的快楽を渇望するが、重大な危険や事故に臨む時に教会堂へ行き始め、実は真心で真理を尋ね求めるのではなく、多くの人は皆恵みや平安を得るためです。また多くの信者は集会をして真理を交わる時に元気がなく、教会で様々な会食や活動を開催すると元気になり、彼らほとんどの人は、ただにぎやかにするだけであり、或いは人脈を広げ、人間関係を築き、商品を売りさばくためなどです。皆さんは一緒にいて食べるものや着るものを比べ、霊的いのちのことを交わらず、少しも神様を敬う心がなく、このような教会はいくら人が多くても、外見は賑やかであっても、停滞して変化のない場所であり、神様の祝福と導きがなく、偽の教会なのです。律法の時代の末期の神殿のように、牛や羊、鳩などを商売する場所になり、もはや神様を礼拝する場所ではなく、神様に嫌われ捨てられる強盗の巣になり、主イエスが彼らを叱られた通りです。「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった。」(マルコによる福音書11:17)そのため、真の教会と偽の教会を見分けるには、この教会は聖書の働きがあるかどうか、教会は真理を愛する人と真理を追い求める人によって構成されたかどうか、皆さんは神様を礼拝することや神様の心を満足させることを追い求めるかどうかを見極めるべきです。真心で神様を信じ、神様の言葉を実践する人によって構成される教会こそ真の教会であり、神様に承認されるのです。もし、一群の真理に興味のない人が集まったら、いくら人数が多くても、外見の勢いが強くても、偽の教会に属し、早かれ遅かれ神様に見捨てられるのです。神様がヨハネを啓示されラオデキヤの教会への手紙「わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。」(ヨハネの黙示録3:15~16)のようです。
真の教会と偽の教会への区別二:教会は真理が支配するものなのか、それとも偽牧者が支配するものなのか
真の教会と偽の教会への区別にはとても肝心なことであり、それは教会は真理が支配するものなのか、それとも偽牧者が支配するものなのかということです。教会は神様の働きによって生まれ、もちろん神様が支配するものであり、真理が支配するものです。もし、教会のリーダーが真理を追い求める人であるなら、彼は神様の心に配慮し、あらゆることにおいて神様を高く掲げ、神様を証しし、神様の言葉を実践、経験するように信者を導き、人々を神様の前へ導き、そして、信者が心の中で神様を最も大いなるものとして崇め、あらゆることにおいて神様の意図を尋ね求め、神様の言葉によって実践し、絶対に盲目でリーダーを崇めることがないなら、このような教会は神様の言葉が支配するものであり、真理が支配するものです。かえって、もしこの教会のリーダーは真心で神様に仕える人でないなら、彼らは自分の地位、職業を奉仕しているのです。名誉と富を奪い合い、嫉妬し合い、教会の中で常に他人を見上げるように自分を高め、自分の威望を打ち立て、誰かが捧げた金額が多いなら、誰かにへつらい、重用し、かえって、それらの本当に真理を交わって光があり、正直にリーダーに意見を出す人は抑制され、排斥され、正常に教会で自分の役割を果たすことができず、多くの信者は識別力に欠け、盲目にリーダーを崇め見上げ、外見から見て神様を信じ、神様に従い、実質的には牧師や長老を信じています。このような教会は偽牧者に制御されるのであり、偽の教会です。まさに次の言葉の通りです。「会内で真理を実践する者は見捨てられ、その者は潜在能力を発揮できない一方、教会を妨害し、死を広める者は、教会内で放縦に行動する。さらに、殆どの人々がこうした者に従う。こうした教会は、明らかにサタンの支配下にあり、そこでは悪魔が教会の王である。教会の人々が立ち上がってこうした悪魔の頭を追放しなかった場合、教会の人々もまた、遅かれ早かれ破滅するであろう。今後は、こうした教会への対策を実施する必要がある。多少の真理を実践できる者が追求していない場合、その教会は追放されるであろう。」(『真理を実践しない者に対する警告』より)
今多くの牧師や長老たちは、人々が主の御言葉を実践、経験するように導かず、信者のいのちへ入ることにおける問題を解決できず、聖霊の働きがある人を教会に導かせず、かえって地位を維持するため、一部の聖書の知識、霊的理論を話して自分を顕示し、人々に彼を崇めさせ、あるいは一部の世界の重大ニュースや健康知識を話して、信者を引きつけ、あるいは聖書の中の人の言葉を解説することを重視し、人々を導いて宗教的儀式を守ります。ある牧師や長老は外見で敬虔に見えるが、裏で捧げものを盗み、淫乱をします。またある牧師や長老は信者を取り入り、教会の勢いを拡大するため、会食や活動を開催し、マーケティングを行い、工場を設立するなど、信者を世俗の道へ導き、教会堂は混乱し悪に満ちているようになります。このような教会堂は不信者の世界との違いがなく、聖書の中に言われたバビロンと同じであり、もはや神様の性質に侵害して聖霊に見捨てられ、その後も神様に呪われ、まさに聖書に書かれた通りです。「彼は力強い声で叫んで言った、『倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そして、それは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣くつ、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣くつとなった。すべての国民は、彼女の姦淫に対する激しい怒りのぶどう酒を飲み、地の王たちは彼女と姦淫を行い、地上の商人たちは、彼女の極度のぜいたくによって富を得たからである』。」(ヨハネの黙示録18:2~3)ここから分かるのは、一つの教会のリーダーが正しい人であるかどうかはとても重要です。もし一つの教会は偽牧者に制御されるなら、聖霊はそこで働かれるはずがなく、彼らが信者を導くのは、盲人が盲人を手引きするであり、最終的に穴に落ち込むのです。
どのように真の教会を探し求めるのか
ここまで交わって、多くの人は宗教界のたくさんの教会堂は聖霊の働きがないことに気づきました。では、私たちはどこで神様の臨在があり、聖霊の働きがある教会を見つけるのか。この実際の困難に直面し、私たちは当時の主イエスが現れて働きをなさった時を振り返ってみて、神殿も荒廃しており、一方では、祭司長、律法学者、パリサイ人は信者が正しい道を歩むように導かず、聖霊に見捨てられたことに繋がりました。もう一方では、主イエスは新しい働きをなさり、聖霊は神殿から取り戻し、子羊の足跡に従う人々に対して働き、それらの主イエスに従う人はいのちの生ける水の供給を得られたが、それらの神殿に留まる人は暗闇の中に陥ったのです。まさに聖書に書かれた通りです。
「わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。そこで二つ三つの町が一つの町によろめいて行って、水を飲んでも、飽くことができなかった。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった。」(アモス書4:7~8)ここから分かるのは、神様が新しい働きを展開される時、古い時代の教会は必ず荒廃して、ここには神様の意図が含まれておられ、つまり、教会の荒廃を通して、私たちは神様の足跡を探し求めることを余儀なくさせたのです。今、災害がますます大きくなり、主の再来の預言は既に実現され、宗教界が荒廃しており、聖霊の働きがなくなり、おそらく主はどこかの教会で現れて働かれたかもしれません。もし私たちは神様の足跡を見つけたら、真の教会を見つけるのです。
では、私たちはどのように神様の足跡を探し求めるのでしょうか。一段落の言葉がはっきりに説明しています。「神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。」(『神の現れによる新時代の到来』より)言い換えれば、神様の足跡を探し求めている私たちは、神様の発される声を探り求め、神様の声を聞くことを重視する必要があります。聖書にこう書かれています。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録2:7)「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録3:20)それは、主がまた諸教会に新しい言葉を語られることを示しています。もし私たちは、どこかの教会が主が戻られて新しい言葉を語られた証しをするのを聞いたら、速やかに神様の声であるかどうかを尋ね求めるべきです。もし神様の声だと分かったら、速やかに受け入れ、こうして私たちは子羊の足跡をたどり、真の教会を見つけるのです。