信仰ステーションの兄弟姉妹の皆さん、こんにちは:
ここ数年の間、牧師と長老たちは私たちにこう言っています。「私たちは今、終わりの日後期に突入しました。ありとあらゆる災害がより頻繁に発生し、その勢力もどんどん増しています。そして、主が再臨されるという預言は既に基本的に成就しています。これは主が近々再臨されることを示唆しています。しかしながら、異端と偽の道もどんどん出てきます。なので、私たちは警戒し、祈り、主の道に従う必要があります。主が再臨されたと宣教する人がいても、私たちはそれに惑わされて神に捨てられてしまわないよう、その人の宣教を聞いたり、読んだり、その人と接触してはなりません。」しかし、兄弟姉妹の多くは困惑しています。「惑わされるのを恐れて主の再臨の知らせを聞くことも、読むことも、それを宣教する人と接触することも拒否していたら、私たちは扉を閉ざして、主をお迎えするのを拒否していることにならないでしょうか?私たちはこのように惑わされるのを恐れて心を閉ざしていても、主の再臨をお迎えすることができるのでしょうか?」そこで、私からの質問は「惑わされるのを恐れて心を閉ざし、独りで待機するというのは正しいことなのですか?」ということです。この質問に対する皆さんの見解を聞かせていただけないでしょうか?どうぞ、宜しくお願いします。
敬具、
グアンミン
2019年2月1日
グアンミン兄弟、こんにちは:
あなたからのメールを受け取りました。あなたが提起されたご質問はとても重大なものです。その理由は、私たちが主の再臨をお迎えできるかどうかにそれが直接つながっているからです。実は、主を信仰する兄弟姉妹の多くもこれについて困惑しています。では、これについて交流していきましょう。
終わりの日には、主がまた来臨され、ありとあらゆる異端と偽の道も出てきます。これらは事実です。主の再臨をお迎えするというこの重大な節目において、私たちは惑わされることを恐れて、主の再臨に関する知らせを聞くことも、読むことも、それを宣教する人と接触することも拒否しています。こうすると、私たちは偽の道に惑わされることはありませんが、真の神に対して簡単に扉を閉ざしてしまうことになります。一見、安全な対応のように見えますが、それにはサタンの企みが込められているのです。サタンは私たちが積極的に神の歩みを求め、神に立ち返ることを恐れています。それ故に、サタンは私たちを惑わして、抑制するために、私たちにその思考を送りつけたり、異端や虚偽を広めます。この結果、私たちは消極的に自分たちを守る姿勢をとり、誰かが主イエス様の再臨を証言しているのを耳にしても、それを探求したり、調査しようとしなくなってしまいます。こんなことをしていて、どうしたら主の再臨をお迎えできるというのでしょうか?主の再臨をお迎えするにあたり、異端と誤った教義から自らを守るということを主な行いとし、真の道を探求し調査することを重要視していなければ、それは '一文惜しみの百知らず' ということに陥ってしまわないでしょうか?実際、私たちは異端と誤った教義からどのように自分たちを守っていようとも、主の再臨をお迎えして神の御座の前に行くことができなければ、最終的には神に排除され、捨てられる愚かな処女ということになります。神は全能であり、この世の全てが神の御手の中にあるということは誰もが知っています。ヤーウェ神はかつてこう仰りました。「心を弱くしてはならない、この地で聞くうわさを恐れてはならない」(エレミヤ書51章46節)。そして、テモテへの第2の手紙1章7節にもこう記されています。「 というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。」 これらの節から、神が私たちにお与えくださるものは力と勇気であり、恐れのもとはサタンにあるということが分かります。私たちには神の気遣いと加護、それに聖霊の存在と導きがあります。惑わされることを心配したり、恐れる必要があるのでしょうか?神の羊は神の御声を聞くことができます。本当に知力と裁量を持つ人なら異端と偽の道に惑わされることはないでしょう。困惑して知力を欠く人たちのみが異端と偽の道に惑わされてしまうのです。私たちは主の再臨を探求して調べる時、誠実な気持ちで神を頼り、仰ぎ見て、真理を求めてさえいれば、神の導きと指導を受け、神の御言葉通りに真の道と偽の道を見極めることができ、偽の道に惑わされずに済むと、私は信じています。しかしながら、牧師と長老たちは主の再臨に関する福音を聞いたり、読んだり、それと接触することはないようにと私たちに言われます。これは明らかに主の御心に完全に反しています。彼らは私たちが真の道を調査するのを妨げており、私たちが主の再臨をお迎えする機会を台無しにしているのです。私たちはこれを明確に理解しておく必要があります。
聖書にはこう書かれています。「したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」(ローマ人への手紙10章17節)。これ故に、私たちは信仰を始める前に、先ずは道を聞く必要があります。その道を聞いてのみ、私たちはそれが真の道であるのかどうか、そして神の顕現と働きについて判断することができるのです。主イエス様が働きをされた時のことを振り返ると、当時のパリサイ人は主をはなはだしく中傷し、非難し、主の働きが真の道であることを否定し、さらに彼らはユダヤの民を騙して探求も調査もしないように仕向けていました。彼らの本性を見極められなかったユダヤの民はむやみに彼らの言葉を信じ、主イエス様の説教を聞くことを拒否してしまい、彼らに従いながら主イエス様を十字架に釘付けにするという最大の罪を犯してしまったのです。しかし、ペテロ、マタイ、マルコ、ヨハネといった人たちはパリサイ人の広めた噂を信じなければ、それに惑わされることを恐れて主の福音に耳を傾けないということもありませんでした。むしろ、彼らは切に探求する心をもって主イエス様の説教を聞き、主がどこで説教されていても、主イエス様の説教に耳を傾けたのです。彼らは探求して切望する心を持っていたために、主イエス様の御言葉には権威があり、それは神の御声であることに気が付き、最終的に主がメシアであったことを確認することができたのです。彼らは神の救いと祝福を授かりました。これは全て彼らが真理を求める心を持って主の説教を聞きに行っていた故に実現したことだったのではないでしょうか?
ヨハネの黙示録には、「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(ヨハネの黙示録2章、3章)、という預言が何度も出てきます。主イエス様はこうとも仰せられました。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした」(マタイによる福音書25章6節)。 主イエス様は、終わりの日に再臨される時にはもう一度御言葉を語られ、そして誰かの「呼ぶ声」を通して私たちに再臨のことを伝えられると明確に私たちに仰りました。これ故に、私たちは主の再臨をお迎えすることについて、探求心を持つ必要があります。主の再臨を誰かが宣教しているのが聞こえる時、それは主が私たちの扉を叩いておられるのです。私たちは賢明な処女になり、積極的に求め、調査し、神の御声を聞くことに注意を払い、そしてその道には真理があり、聖霊の働きが宿っているのかどうかを確認しなくてはなりません。そうすることでのみ、私たちは主の再臨をお迎えすることができるのです。
これで、主の再臨をお迎えしたければ、消極的に守りの姿勢に入るのではなく、積極的に探究する必要があるということが分かりました。加えて、その最も重要な部分として、私たちは真の道と偽の道を見極める原則を学ぶ必要があります。それができてのみ、私たちは惑わされるのを避けることができます。ならば、どのようにしてそれらを見極めればよいのでしょうか?先ず初めに、次の御言葉を読んでみましょう。「真の道を探求する上での最も基本的な原則は何だろう。あなたは、それが聖霊の働きがあるかどうか、それらの言葉が真理を述べているかどうか、誰について証しされているのか、それが何をもたらすか、といったことを調べなければならない。真の道と偽りの道とを判別するには、いくつかの基本的な知識が必要だ。最も基本的なことは、そこに聖霊の働きがあるかどうか、ということである。人間の神への信仰の真髄は神の霊を信じることであるからだ。受肉した神への信仰も、その肉が神の霊の体現であることに基づいている。だから、そうした信仰はなおも聖霊への信仰であるということになる。霊と肉の間には違いがある。しかし、この肉体は霊から来たものであり、肉となった言葉であるのだから、人間が信じるのは、なおも神に内在する実質なのだ。そこで、それが真の道であるかどうかを区別するには、何よりもまず、そこに聖霊の働きがあるかどうかを見て、その後で、その道に真理があるかどうかを見るのだ。この真理は正常の人間性のいのちの性質である。つまり、神がはじめに人間を創造した時に人間に要求したこと、すなわち、(人間の理知、見識、知恵そして、人間であることの基本的な知識を含む)正常の人間性すべてである。即ち、この道が人間を正常な人間性の生活に導くものかどうかを見極めなければならない。述べられている真理が正常の人間性の現実において必要なものかどうか、この真理が実用的で現実的であるかどうか、また、それは最も時宜にかなったものであるかどうか、といったことを見極めなければならない。もし真理があるのなら、それは人間を普通の現実的経験へと導くことができるはずだ。更に、人間はいっそう正常になり、人間としての理知はより完全になる。人間の肉体における生活と霊的生活とはさらに秩序あるものとなり、喜怒哀楽はより正常なものとなる。これが第二の原則である。もうひとつの原則がある。それは、人間は神についてより多くの認識をもっているかどうか、そのような業と真理を経験することは神への愛を呼び起こすかどうか、その人をより親密に神のもとへ近づけるかどうかということだ。このことによって、それが真の道であるかどうか見定めることができる。最も基本的なことは、この道が超自然的なものではなく、現実的なものであるかどうか、また、それが人間にいのちを与えるものであるかどうかということだ。もしそうした原則にかなうものであれば、この道が真の道であると結論づけられる。」「もしそれが聖霊による働きであるなら、人間はずっと正常になり、その人間性はさらに正常になる。人間はサタンに堕落させられた自分の性質、人間の本質についての認識を増し、真理への渇望は更に大きくなる。これはつまり、人間のいのちがどんどん成長し、人間の堕落した性質においては、より一層の変化が可能となる。これら全てが神が人間のいのちになるということの意味である。もし、ある道が、人間の本質であるこれらのものを明らかにすることができないのなら、また人間の性質を変えることができないのなら、さらにまた、人間を神の前へ導き、神についての真の理解を与えることができないのなら、あるいは、人間性をさらに卑しめ、その理知をますます異常なものにするのなら、その道は真の道ではあり得ず、悪霊の業、あるいは、古い道なのだ。要するに、それは聖霊が現在為している働きではないということだ。」
この御言葉より、真の道には聖霊の働きが宿っているということが分かります。これが真の道と偽の道を見極めるための鍵となります。真の道であれば、それは間違いなく神御自身の働きであり、聖霊に支持されているに違いありません。例えば、主イエス様が働きに来られた時、主は律法の時代の幕を閉じ、恵みの時代を開かれ、悔い改めの道をもたらされました。主イエス様に従っていた人たちは全員が、主に呼び掛けてさえいれば、聖霊の働きを受けて主がお与えくださる豊かな恵みを授かることができました。人々は罪を犯しても、誠実な心をもって主に祈りを捧げてさえいれば、その人々の罪は許され、心は平安と幸せで満たされました。人々はどのような困難や問題に遭遇しても、主の御言葉通りに実践してさえいれば、その人々の魂は自由と解放感を得ることができました。そうしないと、彼らは罪悪感で満たされ、心の中では主に対する恩義の念に駆られました。人々は主の御言葉と働きを断続的に体験するにつれて、主への信仰が増々厚くなり、主への愛も次第により深くなり、彼らは主のために全てを脇に置いて、主の福音を伝導することによって自分たちの存在そのものを主イエス様に捧げる意思を持つようになりました。主イエス様の働きはローマ政府とユダヤの宗教界による見境のない非難と迫害を強いられましたが、主の福音はそれでも見事にユダヤの地全体に広まって行きました。心から神を信仰し、神の顕現を切望した人々は全員が主イエス様の救いを受け入れて、神の御前に立ち返りました。そして2千年が経った今、主イエス様の福音は世界の隅々まで宣べ伝えられ、キリスト教は多くの国々で正式に国教とされています。そして、この全ては聖霊の働きの結実なのです。その一方で、偽の道には聖霊の働きによる導きも加護もありません。なので、その信者が神への真の信仰や真の愛を持つことはありません。さらに、彼らは、初めはどれだけ熱心に見えても、すぐに去って行ってしまいます。私たちがよく言う「神からのものは栄え、人からのものは滅びる」、というのは正にこういうことなのです。このようにして、私たちは聖霊の働きが宿っているかどうかによって、それが真の道であるかどうかを見極めることができるのです。
これに加え、それが真の道であれば、真理といのちが見られるはずです。主イエス様は仰りました。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書14章6節)。 神はいのちの源です。神のみが真理を表し、私たちにいのちを与え、私たちが現在必要とすることを備えることがおできになります。そして、神のみが、私たちに現実的な道を指し示し、私たちの抱える問題、当惑、そして困難の全てを解決することがおできになります。例えば、律法の時代末期には、神の律法と戒めを守れる人はいなくなり、自分たちの罪を償うのに十分な罪の捧げものを持っている人はいませんでした。それ故に、当時の人々は律法によって有罪とされ、死刑に処される危険に陥っていました。こうして、当時の人々の欠乏を補うため、神は人類の罪を贖う働きに着手されました。主イエス様は、多くの真理を仰せられ、私たちに人間にお互いを愛し合うこと、寛容で寛大な心を持つこと、敵を愛すること、他人を幾度でも許すことを教えてくださりました。主はまた、義に飢えかわき、義のために迫害されてきた人々は幸いであり、その人々は神に認められた人々であること、そしてその一方で、偽善的で、他人を欺き、真理を嫌う人々は神によって忌嫌われ、非難されてしまうということも私たちに仰せられました。加えて、主イエス様は、苦難に耐えながら主に従うこと、霊と真をもって神を礼拝すること、心と精神をつくして神を愛すること、神の御心に従うこと、正直な人になること等、私たちに対して様々な要求をされました。主イエス様の御言葉から、神の御心と要求が理解できると同時に、神がどのような人を好み、嫌われ、どのような人が天国に入れるか、人々はどのように神を愛し、どのように他人を扱うべきか等が分かります。主の御言葉に従って実践すれば、私たちの抱える困難、問題、そして当惑は解消され、私たちは成長して増々真理を理解できるようになり、私たちの人間性は増々正常になり、私たちの神との関係はより親密になるのです。この全てが主の御言葉が私たちにもたらす効果なのです。これより、真の道には真理といのちが見られ、それは人々が必要とすることを備え、人々に実践の新たな道をもたらしてくれるということが分かります。その道が人々に真理をもたらさず、実践の新たな道を示すこともなく、神が以前なさった働きや、仰せられた御言葉を繰り返す、または真に見えても実は偽であるといった教義を人々に幾つか理解させる、または人々に古い規則を幾つか守らせるだけのものであるとしたら、それは真の道ではありません。それは、おそらく、古い道であるか、偽の道、あるいは神が過去になさった働きを真似る悪霊とサタンが人々を惑わすために行っている働きである可能性があります。
真の道を見極める上で考慮する必要がある3つ目の原則は、その道が人々に神の更なる認識を与えてくれるかどうか、そしてそれが人々の内に神への愛を芽生えさせるかどうかを確認するということです。神は働きをしに来られるため、必然的にその性質、ならびに神が有する全てと神そのものを示されるということを、私たちは誰もが知っています。人々は神の働きを体験する時、自然と神の真の理解に至ります。これは、律法の時代に、ヤーウェ神が地上で人々の生活を導くために律法を発布されたのと同じです。人々は、神に仕えた祭司であろうと、一般の民であろうと、律法と戒めに従い、神の要求通りに振る舞ってさえいれば、神の祝福と承認を得ることができました。対照的に、祭司たちは律法と戒めに従わなかった時、天から降る炎によって焼き殺されました。一般の民が律法と戒めを破った時、彼らは石で撃ち殺されてしまいました。神の働きを体験したことにより、彼らは神が御霊であり、至る所におられること、神は全地を見ておられ、人々の心の奥底を覗かれること、神の性質は威厳、怒り、呪い、焼き尽くしであり、それはいかなる人でも害することができないものであると認識しました。これ故に、彼らは神を恐れる心を持つようになりました。恵みの時代に、受肉された神は人類の罪を贖う段階の働きをするために地上に来られました。主イエス様は病人を癒し、悪霊を追い出し、私たち人間に豊かな恵みをお与えくださり、寛大で寛容な心を持ち、敵を愛し、他人を幾度となく許すこと等を教えてくださりました。そして、主は人間のために自らが模範にもなってくださりました。主イエス様の働きを体験したことにより、神の性質は怒り、呪い、そして焼き尽くし以外に、憐れみと慈しみでもあるということを認識しました。私たちはまた、神は御霊として働きをなさるだけでなく、人間の姿をとって、私たちと直接話しをすることがおできになるということも知りました。神は人間に対する愛で満ちておられ、寛大な心でも満ちておられます。そして、この全てにより、私たちは神の新たな理解に至り、神の謙虚さと魅了的な性質を知ることができました。私たちは神の働きを体験すればするほど、増々神の至高と偉大さを実感し、自分たちが小さいことを感じとり、更には、不可侵の神の聖なる、かつ義なる性質の真の理解を得ることができると感じるようにもなるのです。これ故に、神の性質、および神が有する全てと神そのものは人間の愛を受けるに極めてふさわしいと、私たちは心の内で確信しています。そして、私たちは神に対して純粋な崇敬、敬虔、そして従順の心を持たずにはいられなくなり、真理を貫いて神と同じ心を持つ人になることを増々切望するようになります。従い、それが真の道であれば、それは人々がもっと神を理解できるようにしてくれると同時に神の性質に関するより深い理解を与えてくれます。それを受けて、人々は神に対して真の愛と畏敬の念を持つようになります。しかし、偽の道は神の働きではありません。それは神の性質や神が有する全てと神そのものがほんの僅かもなければ、人々が神に関する真のまたは現実的な理解を持てるようにもしてくれませんし、まして人々に何らかの建設的な結実をもたらすことや、神を愛するように人々を刺激することなど到底できません。
これらが真の道と偽の道を見極める3つの原則です。主イエス様はこう仰せられました。「捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」(マタイによる福音書7章7節)。 私たちは、誰かが主の再臨を宣教するのを耳にする時、誠実な心をもって真理を求め、それを積極的に調査し、これら3つの原則を基に熟考して見極めてさえいれば、神の導きと啓示を受け、神の御声を聞いて、主の再臨をお迎えすることができると私は信じています。反対に、偽の道に惑わされることを恐れて聞かない、読まない、接触もしないというアプローチをむやみにとり、扉を閉ざして自らを隔離していたのでは、惑わされることを恐れて心を閉ざしているということになるため、決して主の再臨をお迎えすることはできないでしょう。
グアンミン兄弟、私はこの交流があなたのお役に立つことを願っています。他にも何か問題がございましたら、どうぞ返信ください。
拝啓と敬具
信仰ステーション
2019年2月19日