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神を信じる-聖書と神のつながりを知ることは重要である

私が北部に引っ越しする前、説教師は私の手をつかんでこう言いました、「今こそが世の終わりです。誰があなたに福音を伝導してきても、それが私たちの信仰と違うなら信じてはなりませんよ。私たちは、『聖書から逸脱することは主を信仰しないということで、私たちは聖書の権威を否定できない』ということを覚えておくべきです。」この言葉を胸に、私は北部に着いてからは集会に参加せず、自宅で聖書を読んでいました。

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2012年のある日、私が妹を訪ねると、彼女は嬉しそうに私にこう言いました、「主イエス様が来られて新しい働きを実行されたのよ。」私は彼女の言葉にびっくりして、こう思いました:「彼女は主を信仰していたことがないのに、どうやって主イエス様が再臨されたなんてことを知っているの?」こうして私は彼女にこう言いました、「おなたは主を信仰したことも、聖書を理解したこともないじゃない。何を分かっているっていうの?」 そして私は立ち上がって家に帰ろうとしました。私がそこを出る前に、彼女は私にこう言いました、「お姉ちゃん、主の再臨を待ち望んでいるってことは主を信仰しているってことじゃないの?今、主イエス様はお戻りになられたのだから、お姉ちゃんも喜ぶべきよ。神の羊は神の御声が聞こえるのよ。お姉ちゃんは私の言葉を信じないかもしれないけど、お姉ちゃんが神から選ばれているなら他の人がお姉ちゃんに福音を説いてくれるわ。」そして、彼女は私に「御言葉は肉として現れる」という本を渡して、家で読むように言いました。しかし、私は説教師の言葉を考慮して、その本を受け取りませんでした。

数日後、私の隣人であるチェン・ジンが私を訪ねてきました。彼女と話をしていた最中、彼女は嬉しそうにこう言ってきました、「シスター、知ってました?主イエス様が再臨されて、聖書には書かれていない新しい範囲の働きを実行されたんですよ。」こういいながら、彼女はハンドバッグから本を取り出し、それを私に渡してきました。私はこの本を見てびっくりしました:「この本は妹が読むように言ってきたのと同じ本じゃないの?」そして私はが妹の言葉、「神の羊は神の御声が聞こえるのよ。お姉ちゃんは私の言葉を信じないかもしれないけど、お姉ちゃんが神から選ばれているなら他の人がお姉ちゃんに福音を説いてくれるわ」を思い出しました。そして今、私に福音を説いている人が本当にいるのです。チェン・ジンは本当に主から送られてきたのでしょうか?私はこの全てが主の御采配であるような気がしました。しかし、聖書から逸脱することは主から離れることだという見解を持っていた私は、聖書を読んでいなかった彼女たちの言葉を信じようとはしませんでした。私はしばらく沈黙を保ちました。チェン・ジンは私の胸中を察したかのように、熱心な口調でこう言ってきました、「シスター、この機会を見逃すわけにはいかないわ!さあ、この本を読んでください。分からないことがあったら、本の中を探してくださいね。答えはきっと見つかりますよ。彼女の誠実さを見た私はこの本を受け取りました。

2日後、チェン・ジンがまた私を訪れてきました。彼女は笑顔でこう聞いてきました、「シスター、前回私があげた本は読んでくれましたか?」私はこう答えました、「いえ、まだ読んでません。この本は聖書とは違います。私たちの説教師が聖書の権威を不定できる人はいないし、聖書から逸脱することは主から離れることだと言っていました。」チェン・ジンはこう言いました、「シスター、じゃあ聞きますけど、主イエス様の働きと聖書の記録ではどちらが先の話しですか?それと、神と聖書ではどちらの方がより偉大ですか?私たちは神の働きを聖書の中で定義することはできないんです。聖書にはこう記されています、「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。」(ヨハネによる福音書21:25)。この聖句は主イエス様が聖書に記録されなかったことが他に沢山あることを語っています。私たちはそれらを主の働きではないと言えるでしょうか?聖書は主イエス様が弟子たちと暮らされていた時に成されたことや言われた内容のいくつかを限定して記録しており、完全な記録ではないのです。私たちが主イエス様は聖書に記録されていることだけを成され、言われたと考えるなら、主の働きを容易に定義することができるでしょう。聖書は主イエス様の御言葉全てを記録していないのに、再臨された主イエス様の働きを予め記録しておくことができるでしょうか?主イエス様が恵みの時代に成された働きは神が働きを成就された後に使徒によって記録されたのではなかったでしょうか?シスター、私の言っていることは正しいですか?」彼女の言葉は突然私の心に明かりを灯しました:「その通りだわ。主イエス様の働きが先で、使徒たちによる文書が後だわ。ということは、再臨された主イエス様がどのように働きになるかを予め聖書に記録しておくなんて無理だわ。彼女の言ったことが気になるわ。私はこれを追求するべきだわ。

チェン・ジンが帰った後、私は神の前に行って祈りを捧げました、「ああ、主なる神様、あなたは本当に再臨なされたのですか?チェン・ジンと私の妹は共にあなたが聖書には書かれていない新しい働きを成されたと言っています。私は彼女たちの言ったことは合理的だと感じています。しかし、説教師は聖書に書かれていない働きはそのいずれもあなたの働きではないと私たちに仰りました。神様、どうしてこんなことが起っているのでしょうか?私はどうすべきなのでしょうか?ああ、主なる神様、どうか私をお導きください。」こう祈りを捧げた後、私はチェン・ジンが私に言ったことを思い出しました:「分からないことがあっても、本を読めばすぐに理解できるわ。」 私はこう思いました:「この本は私が理解に苦しんでいる問題を解決してくれるのかしら?答えを見つけるために読んでみようかしら?チェン・ジンの言葉が正しかったとしても、この本を読まないことにはそれが分からないわ。しかも、主イエス様が本当に再臨されておられるのに、この本を読まないことが理由でこの機会を逃してしまったら、私は主に合わせる顔がないわよね?その場合、主イエス様がこの堕落した人類を破滅なされたら、私が『ああ、主なる神様、私はあなたが再臨されていたことを知りませんでした』と言っても、主イエス様はきっと、『私はあなたにあなたの妹とチェン・ジンを送って私が再臨していることを幾度となく伝えましたよ。でもあなたはそれを信じませんでした。あなたは誰のせいにするのつもりですか?』と仰るわ。そうなったら、私は無いも言えずただ悔い改めるだけに生きることになってしまうわ。」 こう考えながら、私は「言葉は肉において現れる」を開き、目次の中に「聖書について(1)」と称した見出しを目にしました。私はこれに驚きました:「聖書について(1)」ですって? 聖書に記されている内容は全て主イエス様の働きじゃないの?聖書の何について書くことがあるのかしら?だれが大胆にも聖書を批評するっていうの?この節は注意して読むべきだわ。」 そして私はその節を開いてその内容を読みました:「聖書とはどういう書物なのか。旧約は律法の時代の神の働きである。旧約聖書は律法の時代のヤーウェの働きと、創造の働きを記録している。そのすべてがヤーウェの行った働きを記録しており、マラキ書のヤーウェの働きの記録で終わっている。旧約は神の行った二つの働きを記録している。一つは創造の働き、もう一つは律法の布告だ。どちらの働きもヤーウェが行った。律法の時代はヤーウェという名で神の行った働きを示している。これは、主にヤーウェという名で行われた働きの総体なのだ。だから、旧約はヤーウェの働きを記録しており、新約はイエスの働き、主にイエスという名で行われた働きを記録している。」「神への信仰において、どのように聖書に接するべきであろうか。これは原則的な問題だ。…長い間、人々の伝統的な信仰の方法は『世界の三大宗教の一つであるキリスト教においては』聖書を読むことであった。聖書から離れることは、主を信じることではない。聖書から離れるのは邪教、異端であり、他の本を読んでいても、そうした本の基礎は聖書の解説でなければならない。つまり、主を信じると言うのなら、聖書を読まなければならないのだ。聖書を飲み食いし、聖書の外では、聖書と関わりのない本を崇めてはいけない。そういうことをするのは、神への裏切りだ。」。主なる神様、ありがとうございます。これらの御言葉は私の心の中を明らかにしてくださっと同時に全く正しい御言葉でした。説教師は確かに聖書から逸脱するということは主を信仰するということではないと言われ、私もまた主を信仰することは聖書を信じることであり、聖書から逸脱するということは主から離れることだと信じていました。加えて、私は神を信仰するにあたって聖書をどのように捉えるべきかということは一度も考えたことがありませんでした。では、聖書はどのように扱うべきでしょうか?この質問を念頭に置きながら、私は慎重に読み続けました:「聖書が存在するようになって以来、人々の主への信仰は聖書への信仰である。人々は主を信じるという代わりに、聖書を信じると言ったほうがいい。聖書を読み始めたと言うよりは、聖書を信じるようになったと言うほうがいい。そして、主の前に帰ったというよりは、聖書の前に帰ったと言うほうがいいだろう。このように、人々はまるで聖書が神であるかのように崇め、まるでそれが自分たちのいのちの源で、それを失うことはいのちを失うことであるかのようだ。… たいていの人は、なぜ神を信じなければいけないのかをまったく理解していないし、どう神を信じるべきかを知らないのに、聖書の章句を解明するために闇雲に手がかりを探す以外には何もしない。人々は聖霊の働きの方向を追究したことはない。これまで、懸命に聖書を勉強し調べる以外のことをしてこなかった。聖書の外で聖霊の新たな働きを見出した者は誰もいないし、聖書から離れた者もいないし、聖書から離れる勇気をもつ者もいない。 …人々の聖書への態度は強迫観念と信仰で、聖書の内部事情や実体について、完全に理解している人は誰もいない。その結果、現在でも人々は聖書に関して説明しようのない不思議さを感じる。それ以上に、聖書に執着し、聖書を信じている。」。私はこの御言葉を読んだ後、あまりのショックに何を言えませんでした。私はこう思いました:「その通りだわ。私は主を信仰するにあたって、どうして神を信仰すべきかを考えたことも、聖霊の働きの方向性を追い求めたこともないし、まして聖書に記載されていない新しい聖霊の働きを見つけることなんかは考えてもいなかったわ。私は聖書は神を信仰しながら読むべきだとしか思ってなくて、聖書から逸脱さえしなければ私たちは主を心から信仰できているものだと思ってたわ。」 私は、集会では牧師と長老たちが聖書の内容と説明するのを聞き、家では一人で聖書を読みました。私は万物が聖書をその基盤としているものと思っていたので、誰の言葉であろうと、それが聖書と合致していなければその人たちは間違っていると思っていたのです。このような考え方は本当に間違っているのでしょうか?

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この問題の答えを見い出すため、私は夕食後も神の御言葉を読み続けました:「そうした聖書への盲信、そうした聖書への信頼によって、その人たちは聖霊の働きを探そうという欲求をもたない。人々の観念では、聖書だけが聖霊の働きをもたらすのである。聖書の中だけに神の足跡を見いだせる。聖書の中だけに神の働きの奥義が隠されている。他の書物や人々ではなく、聖書だけが、神に関するすべてとその働きの全体を明らかにできる。聖書は天の働きを地にもたらす。そして、聖書は時代の始まりと終わりをもたらすことができる。 … 神の働きに教義を当てはめる必要があるのだろうか。また、それは預言者たちの予言に合致しなければいけないのだろうか。結局のところ、どちらが偉大なのだろう。神か、それとも聖書か。なぜ神の働きが聖書に沿ったものでなければならないのか。神には聖書を超える権利がないということか。神は聖書から離れて別の働きをすることができないのか。なぜイエスとその弟子たちは安息日を守らなかったのか。もし安息日を守り、旧約の掟を実践するためであったのなら、なぜイエスは現れて以来、安息日は守らなかったのに、足を洗い、頭を覆い、パンを割り、ワインを飲んだのか。これはみな、旧約の掟にはないことではないか。もしイエスが旧約を尊重したなら、なぜそうした教義に違反したのか。神と聖書と、どちらが先に来たかわかっているはずである。神は安息日の主であると同時に、聖書の主でもあるのではないか。」。これらの御言葉は私を長い眠りから目覚めさせる呼び出しのようでした。私は神は人類が存在する前から存在しておられたと創世記に記録してあるのを思いだしました。聖書は神の働きの記録であるのに、どうして神が聖書の設ける制限の対象になり得るというのでしょうか?神は創造者であられるのです。神は聖書から逸脱し、聖書の以外の他の働きをする権利をお持ちなのです。例えば、ヤ―ウェ神は律法の時代において、律法と戒律を宣言なされました。しかし、主イエス様が恵みの時代に来臨された時、主は御自身の働きを律法の時代の働きに従っては成されずに、贖いの働きを成されました。人類は神が御自身の働きを成就なさった後に初めて聖書に神の働きを記録したのです。聖書は単なる本にすぎないのに、どうしてそれが神よりも偉大になり得るというのでしょう?これらの御言葉の意味はとても明らかだったのです。だからこそ、チェン・ジンと私の妹は神は聖書に記されている以外の新しい働きを成されたと言ったわけであり、チェン・ジンも、「分からないことがあっても、本を読めばすぐに理解できるわ」と言っていたのです。この本は本当に貴重なもので、私はもっと早くに読んでいなかったことを後悔しました。後に、私はさらに神のこの御言葉を目にしました:「聖書がなければ、人々は別の場所に神の足跡を探せる。しかし、今日、神の足跡は聖書によって封じ込められている。だから、神の最新の働きを広げることは、二重に困難な、苦しいことになっている。これはみな、聖書の有名な章句のせいであり、聖書のさまざまな予言のせいである。聖書は人々の心の中で偶像となり、人々の頭脳の中の謎となった。人々は神が聖書とは別に働けることをどうしても信じられず、聖書の外でも神を見つけることができることが信じられなくなっている。まして、神が最後の働きのあいだに聖書を離れて新しく始められるなどとは信じられない。これは人々にとって考えられないことである。人々には信じられないし、想像することもできない。聖書は神の新たな働きを受け入れるための大きな障害になり、この新たな働きを広めることを困難にしている。」。「あなたたちは聖書を理解しなければいけない──この働きは最も必要なものだ。今日、聖書を読む必要はない。そこには新しいものは何もないからだ。みな古い。聖書は歴史的な書物であり、もしも恵みの時代に旧約を飲み食いしていたなら、恵みの時代に旧約の時代の要求を実践していたなら、イエスはその人を拒んでいただろう。そして、罪に定めていたであろう。もしも旧約をイエスの働きに適用していたなら、その人はパリサイ人であったであろう。もし、今日、旧約と新約をともに飲み食いし、実践したなら、今日の神はあなたを罪に定めるだろう。今日の聖霊の働きから取り残されるだろう。もし旧約を食べ、新約を食べるなら、その人たちは聖霊の流れの外にいる。イエスの時代、イエスは当時、ユダヤ人と自分に従う者みなを自らの内の聖霊の働きに従って導いた。イエスは聖書を自身の行為の基礎とせず、自分の働きに従って語った。イエスは聖書の記述を気に留めなかった。また、自分に従う人々を導く道を聖書に求めなかった。教えを説き始めたその初めから、イエスは悔い改めの道を広めた──その言葉は旧約の預言書ではまったく触れられていないものだった。イエスは聖書に従って行動しなかっただけではなく、新たな道へと導き、新たな働きを行った。イエスは教えを説く際に、一度も聖書に触れていない。律法の時代には、イエスのように奇跡を起こし、病を癒し、悪霊を祓う者は一人もいなかった。イエスの働き、その教え、その権威──律法の時代には、誰一人これをしなかった。イエスはただ、自分の新たな働きを行った。多くの人々は聖書を用いてイエスを罪に定めたが(さらにはイエスを十字架につけるのに旧約を用いた)、イエスの働きは旧約を超えていた。もしそうでなければ、なぜ人々はイエスを十字架につけたのか。それは、旧約ではイエスの教え、病を癒し悪霊を祓う能力について何の記述もなかったからではないのか。イエスの働きは新たな道を開くためのものであり、それは意図的に聖書に戦いを挑むものではなかったし、意図的に旧約を放棄するものでもなかった。イエスはただ、自分の職分を果たすため、自分を切に求める人々に新たな働きをもたらすために来たのである。旧約を説明し、その働きを継続するために来たのではない。イエスの働きは、律法の時代が発展を続けるようにするためではなかった。イエスの働きはそれが聖書に基づいたものかどうかを問題にしなかったからである。イエスは単に、しなければならない働きをするために来たのだ。」。 これらの御言葉より、私は、「神は聖書を神の成さることの基盤とはされていないが、御自身の働きに従ってお話しになられる」ということを知りました。今日、神は来臨され、小さな巻物をお開きになりました。神は新たな御言葉を発せられ、聖書に記載のない新たな道を創造されたのです。私は神の御言葉とチェン・ジンの交流によって突然の御啓示を授かった気分になり、私の妹とチェン・ジンが聖書を読まなくなった理由を知りました。私は10年間以上も聖書を読んできたのに、聖句をいくつか理解していただけで、神の働きについては何も知らなかったことに気が付きました。神の御言葉は私を完全に納得されてくださり、私は自分の観念を捨て去る気になりました。その後、姉妹チェン・ジンは私に世の終わりの神の働きを証言してくれました。私は彼女の交流と証言を数日間聞いた後に世の終わりの神の働きを受け入れました。私は全能神の御言葉をさらに読んだ後、全能神は再臨された主イエス様であられることを確信しました。

振り返ってみると、私は神への信仰において主イエス様の再臨を切に待ち望んでいたにもかかわらず、いざ主イエス様が働きを成さるために再臨された時は、主の働きが自分の観念と合致しなったからといってそれを受け入れていなかったのです。もし神が私のことを諦めになられて、私の妹とチェン・ジンを私に福音を説くように動かしてくださっていなければ、私は神の働きによって除外されていたことでしょう。私は危うくそうなってしまうところでした!今私は、神の御言葉を読むことで聖書に関する新しい理解を手にし、それを正しく扱うことができるようになりました。私は、聖書は単に神の働きの記録であり、それは決して神御自身または神の働きを代表するものではないと理解しました。これ故に、私たちは、神が聖書の記す主であられるからといって、聖書を崇拝したり、聖書を神として扱ったり、ましてはそれを神よりも偉大な存在として捉えることなどはできないし、私たちの観念によって神の働きを聖書に記されているものに限定することもできないのです。私は自分が主を信仰してきた中で10年以上も理解できていなかった真理の多くを理解させてくださった神を賛美いたします。

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