聖書には神の御言葉に限らず、人の言葉も記されています
牧師と長老たちはいつも聖書に記述された言葉は全て神の御言葉であり、聖書は神の霊感を受けて書かれたものであると私たちに言います。聖書にもこう書かれています、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって」(テモテへの第2の手紙3:16)。 これ故に、私たちは聖書に書かれている言葉は全て神の御言葉であるという信念を抱いてきている訳です。しかし、今日、今井姉妹と一緒に聖書の勉強をしていた時、私はこの観念に関して新たな知識を得たのです。
私たちが聖句の中から幾つかの節を読んだ時、今井姉妹が聖書には神の御言葉だけでなく、人、ヘビ、サタン、そしてロバの言葉も記されていると言いました。そして、彼女はこの節を見せてくれました。
創世記3:1「へびは女に言った、『園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか』」。 これはヘビがイブに言ったことです。
ヨブ記2:2「サタンは主に答えて言った、『地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました』」。 これはサタンが神に言ったことです。
民数記22:30「ろばはまたバラムに言った、『わたしはあなたが、きょうまで長いあいだ乗られたろばではありませんか。わたしはいつでも、あなたにこのようにしたでしょうか』」。これはロバがその主人に言ったことです。
これらの節を読んだ後、私は思わず心の中で混乱してしまいました:「正に、これらは神の御言葉ではなく、サタン、ヘビ、ロバの言葉だ。そしたら、パウロはどうして聖書の言葉は全て神によるものだと言ったのでしょう?どうして牧師と長老たちは聖書の記述は全て神の御言葉だと言うのでしょう?今井姉妹は私の胸中を察したようで、私とある知識を共有してくれました。
彼女は、「実は、聖書の中で、神は聖書の記述は全て神の御言葉であるとは決して言われていないし、聖霊もその証言はしていないんです。’聖書の言葉は全て神の霊感を受けて書かれている’という言葉はパウロの個人的な認識を表しているだけで、神の御心とは違うんです。そして、牧師と長老が抱く信念も単にパウロの言葉に基づいているものであって、神の御言葉には基づいていません。私たち神の信仰者は全てを神の御言葉に従って捉えるべきなのです。」これを聞いた私はうなずいて賛成しました。
そして彼女はこう言いました:「これで、聖書の言葉は全てが神の御言葉ではないことが分かりました。そうしたら、聖書のどの箇所が神の御言葉なのでしょう?この疑問をはっきりさせることは必要だと思います。」その後すぐに私たちはこの議論を続行しました。
今井姉妹は続けてこう言いました、「聖書では、ヤーウェ神が仰った御言葉、ヤーウェ神がモーゼに言うよう指示された御言葉、神が預言者たちに告げることを要求された御言葉、主イエス様が仰られた御言葉、そしてヨハネの黙示録で神がヨハネに明らかにされた預言の内容のみが神の御言葉で、それ以外の人の伝記や使徒たちの手紙は全て人の言葉です。これらは彼らの個人的な体験や知識を表しているだけで、神の御言葉ではなく、またそれを神の御言葉と言うことはできません。
神が預言者たちに御啓きになられた御言葉を全部見てみましょう。神の御言葉を預言者たちの言葉と区別するため、預言者が告げた神の御言葉には常に神の御心に合わせて『主は仰りました』もしくは『このように主は仰りました』と初めに印を付けています。例えば、出エジプト記16:23「モーセは彼らに言った、『主の語られたのはこうである…』」。エゼキエル書5:8「それゆえ主なる神はこう言われる…」。エゼキエル書 7:20「それゆえ主なる神はこう言われる…」等です。これらは全て真実ですよね?これに賛成できますか?」私はうなずいて、「はい、てきます」、と答えました。
主なる神様、有難うございます! 私は今井姉妹と一緒に聖書の勉強をしてこれらの知識を得ることができました。主を信仰する兄弟姉妹の皆さん、これを理解できましたか?